うわばみ夫人

先是、衛將軍王渉素養道士西門君惠。君惠好天文讖記、為渉言「星孛掃宮室、劉氏當復興、國師公姓名是也*1。」渉信其言、以語大司馬董忠、數倶至國師殿中廬道語星宿、國師不應。後渉特往、對(劉)歆涕泣言「誠欲與公共安宗族、奈何不信渉也!」歆因為言天文人事、東方必成。渉曰「 新都哀侯小被病、功顯君素耆酒、疑帝本非我家子也。董公主中軍精兵、渉領宮衛、伊休侯主殿中、如同心合謀、共劫持帝、東降南陽天子、可以全宗族。不者、倶夷滅矣!」伊休侯者、歆長子也、為侍中五官中郎將、(王)莽素愛之。歆怨莽殺其三子、又畏大禍至、遂與渉・忠謀、欲發。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)


王莽の新王朝の末期。



王莽の従兄弟にあたる王渉は王莽に対する反乱を企て、王莽の腹心として働いてきた国師公劉歆(実際にはこの頃「劉秀」と改名していた)に反乱を持ちかけた。




その際、王渉は「新都哀侯(王莽の父)は病気で、功顕君(王莽の母)は前々から酒好きでした。皇帝(王莽)は我らが王氏の血を本当に引いているんですかねえ・・・」と、王莽が不義の子ではないか、との疑念を劉歆に語ったという。





これは王莽への反乱に対する大義名分、劉歆への説得材料としてでっちあげた疑惑かもしれないが、「実子ではない疑惑」が始皇帝東晋元帝などだけではなく、王莽にもあったということではあるようだ。



*1:「劉秀が天子になるべきだ」という予言が当時流布していたという記録がある。