山陽王と東海王

廣陵思王荊、建武十五年封山陽公、十七年進爵為王。
荊性刻急隱害、有才能而喜文法。光武崩、大行在前殿、荊哭不哀、而作飛書、封以方底、令蒼頭詐稱東海王彊舅大鴻臚郭況書與彊曰・・・(略)・・・彊得書惶怖、即執其使、封書上之。
(『後漢書広陵思王荊伝)

後漢の初代光武帝の子の一人、広陵思王荊。
父の光武帝が死亡したとき、彼(当時は山陽王)は名を騙り異母兄である東海王彊に身の危険を指摘し謀反をそそのかした。
東海王はそれに乗らずに弟である明帝に報告した。

山陽王荊は兄明帝の寛大な処分を受けてもその性状は直らず、呪詛などもするようになったため、十年ほど後に処刑が検討され、王は自殺に追い込まれた。

一方、明帝の兄で元皇太子という謀反を勧められる立場だった東海王はこの事件で明帝への恭順を改めて示し、光武帝死去の翌年に病となった。
明帝は中常侍など自分の側近を送って彼の看病に当たらせたが、その甲斐もなく東海王はまもなく亡くなった。


謀反の神輿になりかねない東海王を明帝が側近を送り込んで始末したのだろう、などというのは下衆の勘ぐりだろうし、光武帝による皇太子廃立はその頃の朝廷や諸侯王の間に不穏な空気をもたらしていたのではないかというのも考え過ぎであろう。