弘農華陰の楊氏

・・・叔向子孫逃于華山仙谷、遂居華陰。有楊章者、生苞・朗・款。苞為韓襄王將、守脩武、子孫因居河內。朗為秦將、封臨晉君、子孫因居馮翊。款為秦上卿、生碩、字太初、從沛公征伐、為太史。八子、鷃・奮・甝・儵・熊・喜・鸇・魋。喜字幼羅、漢赤泉嚴侯。生敷、字伯宗、赤泉定侯。生胤、字毋害。胤生敞、字君平、丞相・安平敬侯。二子、忠・綠。忠、安平頃侯。生譚、屬國・安平侯。二子、寶・並。寶字稚淵。二子、震・衡。震字伯起、太尉。・・・
(『新唐書』宰相世系表一下)

いわゆる弘農華陰の楊氏は、前漢の列侯楊喜および楊敞、そして後漢の名臣楊震の子孫を称している。

楊喜は項羽の死体を持ち帰った五人のうちの一人。
楊敞は昭帝期の丞相であり、かの司馬遷の娘婿ということでも有名。
楊震が楊喜・楊敞の子孫であることは『後漢書楊震伝にある。

しかしこの系譜はどこまで信用に足るのであろうか。

漢書』高恵高后文功臣表には、赤泉侯楊喜とその子孫について記載されている。
それによれば、赤泉侯は初代の厳侯喜、二代目の定侯敷と続き、そして三代目の毋害で罪があり列侯を奪われている。
そして、楊喜の玄孫「茂陵の不更孟嘗」が楊喜の子孫ということで黄金と徭役免除を下賜された。
その徭役免除はその子の恢、その子の譚、その子の並まで続いたが、そこで断絶した。
平帝の時代に再度子孫を探して恩典を与えようとしたが子孫が見つからなかったという。

楊喜の子孫は前漢末には追えなくなっていたのだ。
楊敞という直系子孫が残っていたはずなのに。


更に、『漢書』楊敞伝を見てみる。
こちらには一切楊喜との関係が言及されていない。
賈捐之伝に賈誼の子孫と記されたり、酷吏伝の周陽由が周陽侯趙兼の子であると記されていたりするように、『漢書』列伝では有名人と血縁がある場合にはきちんと記しているので、楊喜の直系子孫でありながら『漢書』が記さないというのは不可解と言っていい。


まあ要するに、『後漢書楊震伝、『新唐書』宰相世系表が記すところはかなり怪しいのである。
宰相世系表の怪しさは私も何度か指摘してきたが、『後漢書』もこの点では似たり寄ったりである。