郡王と県王

(黄初)五年、詔曰「先王建國、隨時而制。漢祖筯秦所置郡、至光武以天下損耗、并省郡縣。以今比之、益不及焉。其改封諸王、皆為縣王」
(『三国志』彭城王據伝)

魏の文帝は自分の兄弟たち諸侯王について、このような命令を出した。「王の領地を改めて県王とする」と。
つまり諸侯王の領地は郡単位ではなく、県一つを基本とするというのである。
漢では諸侯王は当初は複数の郡を含み、それ以降も郡と一応同等であったのだから、これは諸侯王のデフレである。
基本的には中央集権的な政策だと言えるだろう。

(太和)六年春二月、詔曰「古之帝王、封建諸侯、所以藩屏王室也。詩不云乎、『懷紱維寧、宗子維城』。秦・漢繼周、或彊或弱、俱失厥中、大魏創業、諸王開國、隨時之宜、未有定制、非所以永為後法也、其改封諸侯王、皆以郡為國」
(『三国志』明帝紀


それに対し、次の代である魏の明帝はこのような命令を出した。「王の領地を改めて郡単位とする」と。
つまり諸侯王の領地は郡一つ分とするというのである。
父文帝の命令とは全く逆方向である。


そもそも当時は郡自体が規模縮小しており、郡でも県でも大勢に影響が出るとも思えないが、明帝は多少とはいえ諸侯王の地位と勢力を拡大する政策を取ったことになる。
言い方を換えれば、文帝の中央集権的路線を多少なりともひっくり返したということになる。