漢の漢たちを語る17「前漢・新・後漢を股にかける男」:張純

後漢創始者光武帝の功臣たちの中でも、元から一番高貴な身分だったのは誰か。


それは張純ではなかろうか。



(張)放子純嗣侯、恭儉自修、明習漢家制度故事、有敬侯遺風。王莽時不失爵、建武中歴位至大司空、更封富平之別鄉為武始侯。
(『漢書』巻五十九、張放伝)

彼はあの張放の息子である。


前漢屈指の領土を誇る列侯であり、しかも漢の有職故実に詳しい勉強家であったらしい。


於是公卿大夫・博士・議郎・列侯張純等九百二人皆曰・・・。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

彼は王莽に九錫を与える際の上奏でも列侯の筆頭として名が見えている。


当時の朝廷でも宗室と外戚を除けば特に高貴な身分であったことと、直接的ではないにしろ彼もまた王莽に協力する立場だったことがわかる。



純少襲爵土、哀平輭為侍中、王莽時至列卿。遭値篡偽、多亡爵土、純以敦謹守約、保全前封。
(『後漢書』列伝第二十五、張純伝)

まあ、おそらく彼としても世の中の潮流に逆らってまで領土や地位を失うよりは、大人しく協力して所領を安堵される方のを選ぶのは当然だろう。


建武初、先來詣闕、故得復國。五年、拜太中大夫、使將潁川突騎安集荊・徐・楊部、督委輸、監諸將營。後又將兵屯田南陽、遷五官中郎將。
(『後漢書』列伝第二十五、張純伝)

張純の凄いところは、王莽に恭順の意を示した列侯筆頭でありながら、王莽が破れんとする時になるといち早く見限って再度所領安堵を得たことだ。

単なる貴族のボンボンに出来ることではない。時流を読む力は素晴らしい物があると言えよう。




その上に騎兵部隊を率いたり輸送や軍営の監督を任されたりと、地味に見えるが大活躍である。

純粋に能力があったのか、それとも列侯筆頭というネームバリューが大きかったのかはわからないが、光武帝の軍団内では「外様」である割にはいいポジションにいるように思える。


有司奏、列侯非宗室不宜復國。光武曰「 張純宿衞十有餘年、其勿廢、更封武始侯、食富平之半。」
(『後漢書』列伝第二十五、張純伝)

所領については後に「前漢の列侯は領地ボッシュートでええやろ」という進言でピンチになったが、彼は特別に半減されたがゼロにはならずに済んだ。

本人としては残念だろうが、全て失わないだけでも特別扱いだったようなので御の字だろう。


純在朝歴世、明習故事。建武初、舊章多闕、毎有疑議、輒以訪純、自郊廟婚冠喪紀禮儀、多所正定。帝甚重之、以純兼虎賁中郎將、數被引見、一日或至數四。
(『後漢書』列伝第二十五、張純伝)

後漢書』によれば光武帝の時代は何しろ前漢の制度・儀礼などが多く失われていたが、その復元などについて張純はかなりの力を発揮したらしい。


なにしろ前漢の朝廷でも最前列に居たような超大物貴族にして官僚だったのだから、彼は生き字引なのである。



皇帝の宗廟の制度や封禅などについても関与したという。




官位は太僕から大司空と出世している。


光武帝が出来る限り身近に置いておきたいと思っていたことが読み取れる。





そんな彼だが、臨終に当たこんなことを遺言したという。

臨終勑家丞曰「司空無功於時、猥蒙爵土、身死之物、勿議傳國。」
(『後漢書』列伝第二十五、張純伝)

自分が死んでも領土を相続させるな、というのである。


もしかしたら、この前漢・新・後漢の三王朝全てで朝廷の大臣・列侯であり続けた彼は、本当は前漢を見限り王莽も見限って領土を保った結果になったことに対し忸怩たるものがあったのかもしれない。


父張放が守ろうとした成帝の系統である前漢は、彼自身の協力もあって滅んでしまったのだから。