常山王張耳

張軌字士彦、安定烏氏人、漢常山景王耳十七代孫也。
(『晋書』張軌伝)

河間張氏、漢常山景王耳之後、世居鄚縣。
(『新唐書』宰相世系表二下)

晋代の張軌や、河間郡の張氏は「漢常山景王」つまり張耳の子孫を名乗っている。

漢三年、韓信已定魏地、遣張耳與韓信擊破趙井陘、斬陳餘泜水上、追殺趙王歇襄國。漢立張耳為趙王。漢五年、張耳薨、謚為景王。
(『史記』張耳陳余列伝)

しかし、『史記』『漢書』を見ればすぐわかることだが、項羽により常山王(恒山王)に封じられた張耳は陳余に追い出され、漢王劉邦に救われて韓信と共に趙を攻め取り、趙王にされているのだ。

つまり張耳は「趙景王」であり、「常山景王」は誤りである。


こんなことは、本当に張耳の子孫で代々口伝や系図が伝わっていたなら起こり得ない。
後から「張耳の子孫」を名乗り、史書を流し読みしてもっともらしい系図を後付けで作ったために起こった誤りというべきだろう。