北地都尉

段氏出自姬姓。鄭武公子共叔段、其孫以王父字為氏、漢有北地都尉卬、世居武威。十四世孫後魏晉興太守紛。五世孫偃師、徙河南。
(『新唐書』宰相世系表五下)

段氏の祖先に漢の北地都尉卬なる人がいたという。

十四年冬、匈奴寇邊、殺北地都尉卬。
(注)
師古曰「功臣表云缾侯孫單以父北地都尉卬力戰死事、文帝十四年封、與此正合。然則卬姓孫、而徐廣乃云姓段、說者因曰段會宗即卬之玄孫、無所據也。會宗、漢書有傳、班固不云是卬後、何從而知之乎?」
(『漢書』文帝紀

だがしかし、『史記』『漢書』に現れる「北地都尉卬」は孫氏であった。

初唐の人顔師古は言う。
「なんか段会宗が北地都尉卬の子孫だとか言ってるルーツ君がいるみたいだが、これは要出典だ。『漢書』段会宗伝に北地都尉卬との関係が全く書いてないのに、ルーツ君はどこから北地都尉卬と段会宗の関係を知ったんだ?」

おそらくだが、顔師古が批判の対象としたのは、『新唐書』宰相世系表などのソースになったであろう各氏の家譜の類なのだろう。
元々は段氏の家譜には段会宗の名もあったに違いなく、それが「北地都尉卬」の子孫とされていたということだ。
顔師古は段氏の家譜と『漢書』を突き合わせた上で、家譜の『漢書』などと符合しないデタラメを糾弾しているのである。

各氏が誇らしげに掲げていたであろう先祖の嘘っぱちを暴くという顔師古の噛み付きっぷりはヤバイ。