名将の子

魏書曰(文)欽字仲若、譙郡人。父稷、建安中為騎將、有勇力。欽少以名將子、材武見稱。魏諷反、欽坐與諷辭語相連、及下獄、掠笞數百、當死、太祖以稷故赦之。
(『三国志』毌丘儉伝注)

三国魏で反乱を起こした文欽の父、文稷は曹操の時代に騎兵を率いた「名将」であったという。ただしここ以外でその名を見ることはなかったと思う。

文欽が魏諷の乱に連座しながら助かったのは、父のおかげであったという。これは父が功労者であったからか、あるいは曹操と同郷だからであろう。

これ以上記録には残っていないものの、子の失態を曹操がわざわざ助けるほどの何かを文稷は持っていたことになる。

挙兵直後に曹操の郷里で集められたか、元から曹氏に仕えていた隷民の類であったか、曹操とそういった特別な縁故があったのではないかと夢想している。