孔丘先生の失言2

中国は春秋時代に職探しのために各地を放浪した孔丘先生は、しばしば反社会的な発言をしてしまうことで有名。

孔子以仲弓為有紱行曰「雍也可使南面」

仲弓父、賤人。孔子曰「犁牛之子騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸?」

(『史記』仲尼弟子列伝)

「雍」というのは弟子の「仲弓」のこと。
つまりぼくらのアイドル孔丘先生は、「仲弓は南面させることのできる人材だ」と彼を評した。

で、その仲弓くんは父が賤しい出自だったが、「雑種の牛の子でも、毛並みや角がすばらしいなら、人間が雑種だからと無視しても山や川の神々の方で生贄に所望するだろう」と孔丘先生は言う。
当時の牛の使い道で一番上等なのは神への生贄。
つまり仲弓は人間が彼の身分の賤しさから無視しようとしても神々の方でほっとかない位の大物だぞ、というのである。


はい、また孔丘先生の不穏当発言出ました。

「南面」というのは君主のこと。
鄭玄その他多くの注釈では諸侯、劉向説ではなんと「天子」を意味するのだという。
どちらにしろ、孔丘先生は賤しい出自の弟子を「諸侯(天子)にしてもよい」と言っているのだ。

これは二重の意味で凄い。
身分が定まっていたあの時代において、賤しいと明記される出自の者を身分社会の頂点にふさわしいと評している。
孔丘先生自身は、儒教についてよく言われるような「封建主義」ではない。とんでもない実力主義である。
そしてもう一つ。それを、魯の大臣経験者とされるとはいえ天子でも諸侯でも無い臣下の身でありながら、孔丘先生はまるで自分に任免権があるかのように弟子に「南面させたい」と言っているのである。
孔丘先生は何様なのか。究極の上から目線ではないか。


秦末の陳勝は反乱に際して「王侯將相寧有種乎」と言い放った。
その精神と同じものが孔丘先生の発言に見えるのである。