博士凡仕六旬、老于陳、將沒、戒其弟子曰、魯天下有仁義之國也。戰國之世講頌不衰。且先君之廟在焉。吾謂叔孫通處濁世而清其身、學儒術而知權變。是今師也、宗於有道、必有令圖。歸必事焉。
(『孔叢子』答問)
秦末に蜂起した陳勝に仕えた、孔丘の子孫である孔鮒。
彼は陳勝と運命を共にして命を落とすのだが、その際に上記のような遺言を弟子に残したという。
「魯は仁義を持った国あり、戦国の世であっても儒学の気風が衰えなかった。それに我らが先君(孔丘先生)の廟がある場所でもある。私が思うに(魯出身の)叔孫通はこのイカレた時代でも身を清くすることができ、儒学をまなびながらも権謀術数も知っている人間である。彼こそ今の時代の儒学の指導者である。必ずや良いはかりごとを持っていることだろう。生きて帰ることができたら必ず彼に従うように」
高祖劉邦に仕えた怪しい儒者叔孫通は、孔丘先生の正統後継者から次の首班指名された人物だったのだ。
叔孫通之降漢、從儒生弟子百餘人、然通無所言進、專言諸故羣盜壯士進之。
(『史記』巻九十九、劉敬叔孫通列伝)
漢に降った叔孫通には百人以上の弟子が居たそうなのだが、この弟子はたぶん孔鮒の弟子だった魯の儒学者たちだったに違いない。
怪しい勢力に付き従ったり、怪しい人物を推挙したりとか、考えてみたら叔孫通のやってることは偉大なる孔丘先生とソックリなので、孔丘先生を信奉する集団の指導者としては孔鮒の指名は適切だったという事なのだろう。