呉楚七国の乱序曲2

「呉楚七国の乱」の際、斉方面の王は膠西、斉、菑川、膠東、済南、済北の六人の王が乱への加担を約束した。

しかし、高祖劉邦の長男である斉王劉肥の子孫が斉の領土を分割相続することとなると、最終的に王は七人立てられている。
残る一人は城陽王である。

城陽王がハブられた理由は以下のとおりである。

王弗聽。遂發使約齊、菑川、膠東、濟南、濟北、皆許諾。而曰「城陽景王有義、攻諸呂、勿與、事定分之耳」
(『史記』呉王濞列伝)

当時の城陽王はかの城陽景王劉章の子。

膠西王らは城陽王を反乱に加担させるに忍びず、「城陽景王は義の人であった。反乱に加えるべきではない。ことが済んでから我等と成果を分かち合えばいいのだ」と言った。
あえて仲間から外しておいたということらしい。

後漢初の劉盆子擁立の過程を見れば分かるように、斉方面において城陽景王は神格化された極めて特殊な存在であったらしいが、「呉楚七国の乱」のときには既に親族たちの間で特別扱いされていた。

こういったところから民間にまで城陽景王の神格化が広まったのか、既に神格化が進んでいたから他の六王が遠慮したのかは定かではない。