文帝の皇太子

ふと思ったが、漢の文帝の皇太子となったのは後の景帝である劉啓。



しかし彼はあの呉楚七国の乱の中心であった呉王の太子とゲーム中に喧嘩して相手を撲殺したといういわくつきの皇太子である。



ただの一般人相手でもカッとなって人を殺すという時点でアウトくさいのに、よりによって諸侯王の中でも最も強大で最も漢王朝に反抗的な王の太子を殺すとか、トリプルプレーものではないか。





皇帝が皇太子を後から取り替えようとしたり、実際に取り替えたりすると、多くの場合は批判を受けたりするものだが、文帝の場合はよくその皇太子をそのままにしておいたな、と思う。