呉楚十国の乱

前漢の時代、呉王濞は各地の諸侯王を誘って漢の景帝に対して反乱を起こした。
いわゆる呉楚七国の乱である。

しかし、最初は呉楚七国の乱は「七国の乱」ではなかった。

王弗聽。遂發使約齊、菑川、膠東、濟南、濟北、皆許諾。
(『史記』呉王濞列伝)

ここの「王」は呉王と最初に共謀した膠西王。つまり膠西王は自分の近親である斉王ら五王を誘い、反乱の約束を取り付けたのである。

また漢に領地を奪われて恨んでいた趙、楚も呉王の勧誘に応じ兵を挙げた。

父が漢によって死においやられた淮南王も呉王に応じることとした。

  1. 膠西
  2. 菑川
  3. 膠東
  4. 済南
  5. 済北
  6. 淮南

全部で十国。これが実現したら「呉楚十国の乱」になっていたところである。
これだけいれば漢だってどうなったか分からない。

しかし現実には斉王がビビッて翻意したため斉が隣国の反乱者たちに包囲されることとなり、済北王も反乱を取りやめた。
膠西王ら斉一帯の兵が斉王包囲に動員され、漢攻めに使えずに終わってしまったのは呉王からすれば相当痛かったのではなかろうか。

かの有名な赤毛のアンこと淮南王安は自国の丞相に騙されて兵を取り上げられて呉王への助力が出来ず、こころならずも漢に味方することとなった。

かくして呉王の反乱は計画どおりに行かず、失敗するのであった。
「十国の乱」が「七国の乱」になってしまったという時点で、呉王たち反乱者側は戦略的に敗北していたのだろう。