晋王

西晋八王の乱と五胡の乱によって滅亡の危機に瀕した時、丞相大都督中外諸軍事となって江東に割拠していた琅邪王司馬睿を群臣が皇帝に擁立しようとした。

琅邪王司馬睿(のちの東晋初代元帝)はそれを受けず、群臣もそれ以上強いることはなく、代わりに「魏晉故事為晉王」(『晋書』元帝紀)ことを請い願った。

つまり、晋皇帝ではなくあくまで晋王になれというのである。
皇帝がいない以上、晋王は当時の晋王朝の最高位ということになるが、あくまで王であって皇帝ではない、という妥協案である。
もちろん、これは司馬睿の謙譲を示す一種のポーズで、近いうちに皇帝になることを予定した上での話だとは思うが。


ここで問題なのは、「魏晉故事」である。
王朝名を冠する王位に就く、ということは魏晋革命では起こらなかった。
しかし極めて似た前例が一つ存在する。


劉備が漢中王を称し、それから漢の皇帝を継いだ件である。


おそらく、元帝司馬睿が晋王を称することとしたのは劉備の漢中王を踏まえている。
しかし当時の公式見解では劉備は偽王朝であり、「季漢故事」などと称するわけにもいかない。そこで便宜上、「司馬昭が晋王となってほどなく晋皇帝になった」という意味で「魏晉故事」と呼んだのであろう。

だが初代の即位が劉備を前例として模倣したとしか思えないということは、当然東晋王朝や史家たちの正統王朝に関する見解にも影響を与えたことだろう。

習鑿歯理論(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090324/1237900422)のような蜀漢正統論も、こういう下地あってのものなのかもしれない。