漢新禅譲

下書曰「予以不紱、託于皇初祖考黃帝之後、皇始祖考虞帝之苗裔、而太皇太后之末屬。皇天上帝隆顯大佑、成命統序、符契圖文、金匱策書、神明詔告、屬予以天下兆民。赤帝漢氏高皇帝之靈、承天命、傳國金策之書、予甚祗畏、敢不欽受!以戊辰直定、御王冠、即真天子位、定有天下之號曰新。其改正朔、易服色、變犧牲、殊徽幟、異器制。以十二月朔癸酉為建國元年正月之朔、以雞鳴為時。服色配紱上黃、犧牲應正用白、使節之旄旛皆純黃、其署曰『新使五威節』、以承皇天上帝威命也。」
(『漢書』王莽伝上)

王莽がいよいよ皇帝の座に就く際のこと。

王莽の即位の形態は一般に「禅譲」と言われるが、ではいったい誰から帝位を譲られたのか。

皇帝の座を約束されていた孺子嬰にそんな判断能力は無い。
先代である平帝はそんな遺言はしていない。
後見人である太皇太后王氏にそんな権利は無い。

王莽に帝位を譲るというのは、高皇帝すなわち漢王朝の初代である高祖劉邦の霊が命じたこと、ということになっているのだ。
(もちろん捏造によるものではあるが)

禅譲」とは言っても、漢魏以降のそれとは少々違うのである。