ある能吏の記録

又兗州從事薛悌與碰協謀、卒完三城、以待太祖。
(『三国志』程碰伝)

魏略苛吏傳曰、思與薛悌、郤嘉俱從微起、官位略等。三人中、悌差挾儒術、所在名為輭省。嘉與思事行相似。文帝詔曰「薛悌駁吏、王思、郤嘉純吏也、各賜關內侯、以報其勤」
(『三国志』梁習伝注)

太祖征張魯、教與護軍薛悌、署函邊曰「賊至乃發」。
(『三国志張遼伝)

初、矯為郡功曹、使過泰山。泰山太守東郡薛悌異之、結為親友。戲謂矯曰「以郡吏而交二千石、鄰國君屈從陪臣游、不亦可乎!」悌後為魏郡及尚書令、皆承代矯云。
(注)世語曰悌字孝威。年二十二、以兗州從事為泰山太守。初、太祖定冀州、以悌及東平王國為左右長史、後至中領軍、並悉忠貞練事、為世吏表。
(『三国志』陳矯伝)

時軍師杜襲、督軍薛悌皆言明年麥熟,亮必為寇,隴右無穀,宜及冬豫運。
(『晋書』宣帝紀

太尉司馬懿尚書僕射衛臻、尚書薛悌、中書監劉放、中書侍郎刁幹、博士秦靜、趙怡、中候中詔季岐以為宜改。
(『宋書』礼志)

三国志』では史書、物語問わず薛悌というとかなりのマイナーな人物という印象しかないと思うが、事績を追っていくと只者ではない様子が伺える。

まず陳矯伝注『世語』などによると、彼は曹操に仕えて兗州従事となり、あの兗州内戦(呂布陳宮などの蜂起)から三城を死守する上で功績があった。

その後、彼は22歳にして泰山太守となっている。おそらく呂虔の前任。

陳矯伝注『世語』の「太祖定冀州、以悌及東平王國為左右長史」とある「左右長史」は、もしかすると丞相長史だろうか。三公の権限を独占する丞相府の事務方トップという感じだろう。

その後、張遼伝に見える有名なエピソードにおいて曹操の指令を伝える護軍を務めている。ほぼ同格の三将軍が並立していた合肥において、実質的な司令官は護軍薛悌であったのではないかと思われる。つまり曹操代理人であり、軍の監察・監督などである。

陳矯伝注『世語』によれば、護軍のほか、中領軍にもなったようである。中領軍は禁兵の指揮官であり、他の就任者を見ると曹氏、夏侯氏などの曹操縁戚や、曹操挙兵時から客将扱いだったという大物史渙などの就任している枢要の官。

『魏略』苛吏伝によると、薛悌は文帝の時に功績に報いる意味で関内侯を与えられている。また、彼が「微より起こり」と称されていたり、「苛吏伝」で言及されていたらしいことは特筆に価するだろう。

薛悌はその後も出世している。陳矯伝によると、陳矯の後に魏郡太守となり、また同じく陳矯の後に尚書令になったということが記されている。
また尚書令になる前は尚書であったらしいことが『宋書』礼志から伺える。

そうなると、薛悌が到達した実質的に最高位の官は尚書令ということになる。
曹操献帝を擁立する前から仕えていた功臣としては低い気もするが、「微より起こ」った人物としては破格の出世なのかもしれない。
彼の就任した官はいずれもその時点での要職ばかりであり、家柄や名士間での評判とは別の事務能力や忠勤、地味ではあるが主君にとって代え難い能力において最大の評価を得ていたのだと思われる。

そして、『三国志』がこのような人物について立伝しておらず、『魏略』でも「苛吏」と評していることにも注意すべきだろう。