『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その50

その49の続き。


梓潼人哀章學問長安、素無行、好為大言。
見莽居攝、即作銅匱、為両檢、署其一曰「天帝行璽金匱圖」、其一署曰「赤帝行璽某傳予黄帝金策書」。某者、高皇帝名也。書言王莽為真天子、皇太后如天命。圖書皆書莽大臣八人、又取令名王興・王盛、章因自竄姓名、凡為十一人、皆署官爵、為輔佐。
章聞齊井・石牛事下、即日昏時、衣黄衣、持匱至高廟、以付僕射。僕射以聞。
戊辰、莽至高廟拜受金匱神嬗。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

梓潼の人哀章は長安で学問を修めたが素行が悪く、大言壮語が多かった。



彼は王莽が天子の代行になっているのを見て、銅の箱を作って二つの札を作り、その一つには「天帝行璽を押した金の箱の図」、もう一つには「赤帝行璽を押し、某が黄帝の金の策書を与える」と書いた。「某」とは漢の高祖の名前(邦)のことであり、王莽は真の天子たるべきで、皇太后は天命の通りにするようにとの書を入れた。
図には王莽の大臣たち八名の名が記され、そこに王興・王盛というめでたい名前を加え、哀章自身の名前も潜り込ませ、十一人の名前と官職を記して王莽の補佐とした。



哀章は斉の井戸、石の牛の件が担当官署に下されると聞くと、その日の日暮れ時に黄色い衣をまとって箱を持って高祖廟へ行き、僕射に渡した。僕射はそのことを報告した。



戊辰、王莽は高祖廟へ行って、天命により禅譲をするべきという金の箱を受け取った。



いともたやすく行われるえげつない行為。



王莽は「天命が俺に皇帝になれと囁いている」ということを理由に真の皇帝になることを宣言。




王莽の場合は天が皇帝になるよう命じたと称し、漢の皇太后へは実質的に事後報告になっているのが特徴的ではないかと思う。漢の劉氏の意向は関係なく、より上位の天が命じたのだ、ということのようだ。