三年之喪

中国のいわゆる「三年之喪」。

漢の文帝は自分の臨終に際し、遺言で「喪は36日で明けるようにね」って命令した。いわゆる「日を以って月に代える」。

その制度が皇帝に対してだけではなく官吏などの親の喪にも適用されていた。
漢の哀帝の時、博士弟子には親の喪に対して三年の休暇が与えられた。前漢末になり、「三年之喪」が公式化する第一歩がやっと記されたのである。
前漢も末期になると儒者である官僚の中には「三年之喪」を行う者が現れ始める一方で、翟方進のように漢の36日を遵守する者もおり、過渡期であったと言えよう。

これを一気に逆転させたのが王莽である。
王莽は平帝が没すると600石以上の高級官僚に「三年之喪」を行わせることとした。これは平帝に対する喪のようであるが、親にも適用すべきということだろう。
王莽は自分の母が死ぬと、自分は大政に関わることを理由に孫に「三年之喪」を行わせているのだ。

王莽による逆転は、王莽やその側近らの暴走的な面もあっただろうが、当時の儒教が浸透しつつあった官界、知識人たちが「三年之喪」を真面目に行うことを重要視していたという面もあるだろう。
この「三年之喪」支持層はそのまま光武帝支持層にもなったわけで、後漢およびそれ以降の時代は「三年之喪」を重んじるようになっていく。