改元1

漢の霊帝中平6年4月、霊帝崩御する。

ここから後漢末の混迷が本格化するわけだが、この年は改元を何度も重ねた珍妙な年としても知られる。

霊帝死後に皇子弁が即位すると、すぐに「光熹」と改元している。
実は漢においてこれまでは皇帝が代替わりした「翌年」に改元するのが通例となっていた。この改元はその例を破るものであり、明らかに異常事態である。
後漢書何進伝によれば、霊帝は臨終に際して宦官にして西園八校尉のまとめ役でもある側近蹇碩に皇子協(献帝)を託したのだという。つまり協を即位させろというのが霊帝の遺志だということだ。何進はそれに背いた。一種のクーデターなのである。
蹇碩何進を排除できずに逆に失脚し、大将軍何進の時代がやってくる。
何進はなぜか官僚連の受けが良く、権臣一族の袁氏を味方につけて宦官を敵に回す。

「光熹」はこの何進時代の年号である。
その年のうちに改元したのは、霊帝の遺志を無視した即位であることから、新皇帝最初の晴れ舞台となるであろう改元を前倒しして、新皇帝を世間に知らしめよう、即位儀礼を早く全部済ませよう、といった焦りがあったからだろうか。