曹植、服喪の理由

昨日の記事に沿って考えるなら、曹操夏侯惇らの重臣に対して、「自分は周の文王であり、息子が武王となるのであるから、殷の紂王たる漢の天子はいずれ紂王のように攻め滅ぼすことになるだろう」という主旨の発言をしたのだ、ということになる。



少なくとも、そう解釈しても突飛な話ではないだろう。周の武王が殷の紂王を攻め紂王は死んだというのはある程度の教養があれば知っている話だったはずだ。



初、(蘇)則在金城、聞漢帝禪位、以為崩也、乃發喪。後聞其在、自以不審、意頗默然。臨菑侯植自傷失先帝意、亦怨激而哭。
(『三国志』巻十六、蘇則伝注引『魏略』)

そうすると、この蘇則と曹植が漢の皇帝の退位を知って喪に服すような態度を取ったという話というのは、「曹操の発言通りに曹丕が「当時の天子を攻め滅ぼす」という周の武王ムーブを行ったと理解した」ということになるのではないか。



「平和裏に禅譲したのに早速殺された」と早合点するのであれば、曹丕がとんでもない非情無道の君主だと思っていたことになるが、「魏武王の言っていた通り周の武王を全力で遂行したのだ」と考えたのだとすれば、曹丕を特別非情と思っていたわけではなく、父の言う通りにした結果として漢の皇帝は死ぬんだ、と理解していたということになる。




どちらと思ったかによって、蘇則や曹植曹丕に対する姿勢・人物理解が変わってくるのである。



曹植が実は曹丕と言うほど関係が悪くないのではないかと思える点などを考慮すると、個人的には後者の方が納得いく気がする。

放伐も可

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『魏氏春秋』)

後漢末、魏王曹操夏侯惇からの天子への即位の進言に対し、「もし自分に天子となる天命があるというなら、私は周の文王となろうではないか」といったようなことを答えたのだという。



夏侯惇への返事の全文が載っているわけではないだろうが、そうだとしても上記内容によるならば、今の自分に即位のつもりがないことと、「天子になる天命があるとすれば周文王と同じようにする」という意志を示したことは間違いない。



諸侯聞之曰「西伯蓋受命之君」
(『史記』巻四、周本紀)

周の文王は殷の紂王に幽閉されたりハンバーグを食わされたり(比喩)といった過酷な仕打ちに遭いながら、支持を失う殷の紂王に対して諸侯の幅広い支持を受けるようになった人物であり、「受命の君」つまり天子となる天命を受けた人物と目されるようになっていたらしいが、彼の間に殷が滅ぶことはなく、子の武王が殷の紂王を滅ぼして天子になるのだった。



曹操は「自分の代で天子になることはない」と同時に、「次の代には天子になるだろう」との意味を込めていたと解釈できるだろう。




それと同時に、殷から周への王朝交代は、周の武王による殷の紂王討伐、つまり「放伐」によって行われていることにも注目すべきかもしれない。



もしかすると、曹操は次の代や自分の臣下たちに対して、「漢の皇帝が殷の紂王のように天子の座にしがみつくのであれば、周の武王がそうしたように「放伐」すべきである」との意味も込めていたのではないか?



少なくとも、「自分は周の文王」=「次の代は周の武王」の先に、「漢の皇帝は天命を失った殷の紂王」も連想させるような発言であり、更なる裏を読む者からすれば、殷から周への王朝交代がどうやって行われたのか、すぐ思い当たることだろう。




実際には「放伐」ではなく「禅譲」であったが、これは曹操による「素直に帝位を譲らないなら力づくで行け」という遺命の存在があったからこそ、漢の皇帝(献帝)サイドもそうするしかなかった、といったところだったのではないだろうか?




藁の家

史記』や『漢書』は本紀、表、志(書)、列伝を備え、巻末に編者とその華麗なる一族について記す「自序」を付した史書であった。



陳寿三国志』や范曄『後漢書』は表や志が少なくとも残っておらず、「自序」も無かった。



それらに対し、いわゆる「正史」の編纂順ではその次に当たる沈約『宋書』は、一つの書で本紀、志、列伝、自序がある史書であった。





この『宋書』の内容からは、「「志」も「自叙」もない『三国志』『後漢書』ごときうすっぺらな藁の家が、深淵なる正史の『史記』と『漢書』とわたしの砦に踏み込んで来るんじゃあないッ!」とでも言い出しそうな強烈な自負を感じないでもない。

巻末のメッセージ

又(孫)晧欲為父和作紀、(韋)曜執以和不登帝位、宜名為傳
(『三国志』巻六十五、韋曜伝)

呉の史家韋曜(韋昭)は、皇帝孫晧がその父で皇帝になれなかった孫和の「本紀」を立てるよう求めたとき、「皇帝にならなかったので「伝」とすべきです」と言って譲らなかったのだ、という話が『三国志』最終巻に残っている。



三國志卷一
魏書一 武帝紀第一
太祖武皇帝、沛國譙人也、姓曹、諱操、字孟徳、漢相國參之後。
(『三国志』巻一、武帝紀)

ところで、『三国志』の最初の巻が「魏武帝曹操の本紀」であることは、まあ割と多くの人が知っているのではなかろうか。




ん?




三国志』は、「皇帝にならなかった(なれなかった)者の本紀」から始まっていて、最終巻で「皇帝にならなかった(なれなかった)者の本紀は作るべきではない」という史家の発言を収録していることになる。



これでは、まるで最終巻になって『三国志』そのものに疑問を投げかけているようになっている。




陳寿が意図的に、狙ってこの構図を作ったのであれば、作品の最後で大どんでん返しが起きる、ものすごい文学作品ではないか。




秦将になっていたかもしれない

項梁殺人、與(項)籍避仇於呉中。
(『史記』巻七、項羽本紀)

項羽の叔父項梁は人を殺し、仇を避けて呉へ逃げたのだ、という。



どんな理由や経緯かはわからないが、項梁は人を殺した割に秦からは追われていたわけではなく、私的な「仇」が追跡していたようだ。


項梁嘗有櫟陽逮、乃請蘄獄掾曹咎書抵櫟陽獄掾司馬欣、以故事得已。
(『史記』巻七、項羽本紀)

もしかすると、一度拘束されたところを曹咎・司馬欣によって助けられたというのが、「殺人罪で捕まったがどうにかして不問になった」ということを指すのかもしれない。


だからといって殺された者の遺族が納得したとは思いにくいので、遺族の報復を恐れて逃げることになったのかもしれない。





理由も不明な殺人を犯し、危ないところを秦の役人に助けてもらい、秦は別に追いかけても来ていないが仇討ちから逃れるために逃げていた、ということになるわけで、何なら秦は項梁を助けてくれた側とすら言うことができるのではないか。


このあたりの項梁は別に秦に反抗的な部分はなく、ちょっとばかり危ないヤツだとしても普通に「秦の人間」になっていて、特別秦を恨んで反抗しようとしていたわけではないのではないだろうか。


張良の方が秦に対する反乱分子としてはずっと筋金入りである。




項羽に剣や兵法を教えたといった話も、「秦の人間」項梁が項羽を「秦の軍人」にするための教育だったのでは・・・。