秦将になっていたかもしれない

項梁殺人、與(項)籍避仇於呉中。
(『史記』巻七、項羽本紀)

項羽の叔父項梁は人を殺し、仇を避けて呉へ逃げたのだ、という。



どんな理由や経緯かはわからないが、項梁は人を殺した割に秦からは追われていたわけではなく、私的な「仇」が追跡していたようだ。


項梁嘗有櫟陽逮、乃請蘄獄掾曹咎書抵櫟陽獄掾司馬欣、以故事得已。
(『史記』巻七、項羽本紀)

もしかすると、一度拘束されたところを曹咎・司馬欣によって助けられたというのが、「殺人罪で捕まったがどうにかして不問になった」ということを指すのかもしれない。


だからといって殺された者の遺族が納得したとは思いにくいので、遺族の報復を恐れて逃げることになったのかもしれない。





理由も不明な殺人を犯し、危ないところを秦の役人に助けてもらい、秦は別に追いかけても来ていないが仇討ちから逃れるために逃げていた、ということになるわけで、何なら秦は項梁を助けてくれた側とすら言うことができるのではないか。


このあたりの項梁は別に秦に反抗的な部分はなく、ちょっとばかり危ないヤツだとしても普通に「秦の人間」になっていて、特別秦を恨んで反抗しようとしていたわけではないのではないだろうか。


張良の方が秦に対する反乱分子としてはずっと筋金入りである。




項羽に剣や兵法を教えたといった話も、「秦の人間」項梁が項羽を「秦の軍人」にするための教育だったのでは・・・。