尚書令鄧馮

尚書南陽鄧馮君侯為右扶風。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始五年)

へえ、王莽時代の元始5年(平帝が死んだ年)に尚書令から右扶風になった鄧馮は南陽の人なのか。



つまり南陽の鄧氏。



「世吏二千石」だという鄧晨や、少年時代に長安詩経を学んだという鄧禹、どちらか(あるいは双方)の近親なのだろうか。



まあこの鄧馮は経歴(王莽が権力を握っていた時代の尚書令)的にかなり王莽寄りの人物だったように思えるが。

辛と幸

中郎將幸成子淵為水衡都尉。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始二年)

(辛)慶忌居處恭儉、食飲被服尤節約、然性好輿馬、號為鮮明、唯是為奢。為國虎臣、遭世承平、匈奴・西域親附、敬其威信。年老卒官。
長子通為護羌校尉、中子遵函谷關都尉、少子茂水衡都尉出為郡守、皆有將帥之風。宗族支屬至二千石者十餘人。
元始中、安漢公王莽秉政、見慶忌本大將軍鳳所成、三子皆能、欲親厚之。是時莽方立威柄、用甄豐・甄邯以自助、豐・邯新貴、威震朝廷。水衡都尉茂自見名臣子孫、兄弟並列、不甚詘事両甄。時平帝幼、外家衛氏不得在京師、而護羌校尉通長子次兄素與帝從舅衛子伯相善、兩人倶游俠、賓客甚盛。
及呂寬事起、莽誅衛氏。両甄搆言諸辛陰與衞子伯為心腹、有背恩不説安漢公之謀。於是司直陳崇舉奏其宗親隴西辛興等侵陵百姓、威行州郡。莽遂按通父子・遵・茂兄弟及南郡太守辛伯等、皆誅殺之。辛氏繇是廢。
(『漢書』巻六十九、辛慶忌伝)

前漢末、王莽時代の水衡都尉に「幸成」なる人物がいたとされている。



だがこの時期の水衡都尉として、将軍辛慶忌の子供の一人「辛茂」がいたとされている。





つまり、「幸成」というのは「辛茂」の事なのだろう。


「辛」は「幸」に誤伝され、「茂」は「成」に誤伝されたと思われる。




「辛」が「幸」と誤って伝わる事例というのが実際にあるようだ。

尊い犠牲

かの曹操の子に曹沖と言う者がいる。



曹操が十代前半にして後継者にしたがったという知恵者であったというが、若くして死んでしまった。



だがよく考えてみると、曹沖を後継者にしたがった時、長子曹丕曹操の列侯の世子(後継ぎ)だったし、いくつかの戦いにも従軍していて、世間的にも後継ぎ候補筆頭と考えられていた事は明らかだろう。


また、曹彰曹植も曹沖より年上。もし曹沖が後継者になるとしたら、この卞氏を母とする3人はどう思うのか。


曹丕は言うまでもないが、弟たちも、そして母卞氏も、自分たちの血統の危機だと感じて抵抗を試みる事だろう。



まして長子が後を継ぐのが一般的とされていた時代であるから、曹丕を後継者から外した場合に、曹操軍閥内にいったいどんな混乱が起こるのか。


また曹丕らの母卞氏と自分の母環氏の間にも暗闘が発生する事はまず間違いないだろう。少なくともどちらか一方はただでは済まない。



曹沖が本当に年にも似ない知恵者であったとしたら、そういった曹操軍閥の情勢や、万一自分が後継者に立てられた時に起こるであろう問題が頭をよぎったのではなかろうか*1




そうなると、曹沖は父曹操の覇業のため、今の曹操軍閥の未来のため、また自分の生母環氏や育ての母卞氏、兄弟たちのため、何をどうすれば軍閥も家も二分し、血を見るであろう騒動を起こさないで済むか、という事も思いつく事だろう。




結果、曹沖は早死にしてしまうのだったが、確かにこれによって曹操軍閥の分裂は避けられたと言えよう。





という妄想。





*1:かの賈詡との問答を見るに、父曹操はこういう視点はあまり意識していないように思える。