曹植の後継者

時法制、待藩國既自峻迫、寮屬皆賈豎下才、兵人給其殘老、大數不過二百人。又(曹)植以前過、事事復減半、十一年中而三徙都、常汲汲無歡、遂發疾薨、時年四十一。遺令薄葬、以小子志、保家之主也、欲立之。初、植登魚山、臨東阿、喟然有終焉之心、遂營為墓。子志嗣、徙封濟北王。
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)


かの曹植は、41歳で死ぬという時に小子の曹志を後継ぎにした。



曹植が曹志の能力を見込んだという。




だが、この時代の諸侯王に才能など必要な風にも思えないし、なんなら能力が高ければ高いほど諸侯王にならずに仕官していた方がいいようにすら思う。というかそういう事を曹植自身が経験していたような・・・。




では他にも長子、嫡子を敢えて後継にしない理由が何かあったのか。


(曹)植、(崔)琰之兄女壻也。
(『三国志』巻十二、崔琰伝)

曹植の正妻は、曹操によって死を賜ったあの崔琰の兄の娘ではないか。




という事は、曹植の長子、嫡子はこの崔琰の兄の娘である可能性が高いのではないだろうか。



崔琰は曹操によって死を賜った関係であるから、曹植としては、自分の国、自分の直系の子孫たちがいささかでも魏王朝に疑われたりするような事が無いように、敢えて曹操に対し恨みがあると思われかねない崔氏の子を後継者から外した、などという配慮もあったのではなかろうか。

メモ

漢の武帝の時、周王の子孫は「周子南君」という「君」にされた。



この「周子南君」は『漢書外戚恩沢侯表では一人として「諡」が記録されていない。



その「周子南君」が「周承休侯」に格上げされてからは「諡」が贈られている事が確認されている。



「君」は「諡」を貰う事が出来ず、「侯」なら貰える、という違いがあったんだろうか?

貴種流離譚

臨海公主先封清河、洛陽之亂、為人所略、傳賣呉興錢温。温以送女、女遇主甚酷。元帝鎮建鄴、主詣縣自言。元帝誅温及女、改封臨海、宗正曹統尚之。
(『晋書』巻三十一、后妃伝上、恵賈皇后)


晋の恵帝の賈皇后(賈充の娘)の産んだ娘である臨海公主は大乱の中で掠奪の憂き目に遭い、人買いによって呉興の銭温なる者の元へ連れてこられた。銭温は自分の娘に与え、その娘は臨海公主を酷く扱ったのだそうだ。


かつての姫君と知っての事だろうか。銭温親子は呉人という事になるので、落ちぶれた晋の皇族に対して過去の意趣返しという意味合いがあったのかもしれない。




その後、公主は元帝(司馬睿)に自分の境遇を訴え出、銭温親子は誅殺されて公主は大臣と結婚して幸せになりましたとさ。



微妙にシンデレラとかを思い出すような話。

魏の君

黄初中、文帝欲追封太后父母、尚書陳群奏曰「陛下以聖徳應運受命、創業革制、當永為後式。案典籍之文、無婦人分土命爵之制。在禮典、婦因夫爵。秦違古法、漢氏因之、非先王之令典也。」帝曰「此議是也、其勿施行。以作著詔下藏之臺閣、永為後式。」
至太和四年春、明帝乃追諡太后祖父廣曰開陽恭侯、父遠曰敬侯、祖母周封陽都君及敬侯夫人、皆贈印綬
(『三国志』巻四、后妃伝、武宣卞皇后)


魏の武帝の正妻(王后、皇太后)の卞氏の母は文帝の時には地位や領土を与えられなかった(与えない事を代々守るようにと文帝は命じている)が、次の烈祖様の時に祖母に陽都君、母にもおそらく同様の地位が与えられたようだ。



烈祖様の母の甄氏の父甄逸と兄甄儼の正妻はそれぞれ君の地位を与えられている。



文帝の皇后郭氏の母、および郭氏の父の正妻はそれぞれ君の地位を与えられている。



烈祖様の皇后毛氏の母は君の地位を与えられている。



斉王芳の皇后甄氏の母は君の地位を与えられている。



高貴郷公の皇后卞氏の父の正妻は君の地位を与えられている。



陳留王の皇后卞氏の正妻は君の地位を与えられている。




魏王朝において、最初はどうやら皇后・皇太后の母に特別な地位(おそらくは領土が付随する「君」)を与えない事を代々の約束としたようだが、誰かさんのお陰で完全に覆っている。




そして、何故か甄氏だけ「皇帝の母の兄弟の妻」に「君」が与えられている。




烈祖様が全く父帝のいいつけ守ってなくてかなりすがすがしい。

宮中の皇子

元興元年、帝崩、長子平原王有疾、而諸皇子夭沒前後十數、後生者輒隠秘養於人閒。殤帝生始百日、后乃迎立之。
(『後漢書』紀第十上、皇后紀上、和熹鄧皇后)


後漢和帝の皇子は10人ほど早死にが続いたため、宮中から出されて密かに養育するようになった。


新たに即位した和帝の小子殤帝はそのおかげで死なずに済んだ子、という事なのだろう(そういう「設定」かもしれんけど)。




霊帝の時にもそういう話はあった(少帝弁にもそういう話が残っている)し、やはり宮中は皇帝の皇子がたやすく命を落とす「何か」があったようだ。



それ以降の皇子を次々と失う皇帝ってのも同じような「何か」が起こってた場合が多いんじゃないかな・・・。



漢代の君

公卿議更立皇后、皆心儀霍將軍女、亦未有言。上乃詔求微時故劍、大臣知指、白立許倢伃為皇后。既立、霍光以后父廣漢刑人不宜君國、歲餘乃封為昌成君。
(『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣許皇后)

漢の宣帝の皇后となった許氏の父の許広漢は、許氏が皇后になった時に「昌成君」となった。



この時の権力者霍光(皇后候補だった霍氏の父)は、許広漢が刑を受けた元罪人(宮刑を受けた)であるから君主となるべきではないと考えていたのだという。



これまで、皇后が立てられるとその父は列侯となる事が多く(死んでいても列侯の地位を追贈されている)、許広漢が列侯にならなかったのは例外に属する処置であり、その理由が霍光の反対だったのだろう。



このほかの例を見ると、皇后・皇太后の母や娘(劉氏の血を引かない)なども「君」にされる事が多く、湯沐邑つまり領土があった事が明記されている例もある。



「君」は列侯よりは下がる地位なのだろうが、貴人の親族などに与えられる特殊な地位であった事も間違いないだろう。



許広漢の「昌成君」に領土があったのか分からない(霍光の話からすれば無かったのかもしれない)が、列侯を与えるのは適当でない、しかし何の地位も与えないというのも適当でない、という者に対しては、漢の二十等爵に記載の無い「君」が与えられるしきたりだった、という感じだろうか。