曹操の弟2

昨日の記事だが、「海陽哀侯」は最終の爵位ではなく、娘の結婚時点での号、という可能性もあるかもしれない。


つまり、「薊恭公彬」が「公」にされた時期とは同じではなく、「海陽哀侯」も後から「公」になったかもしれない、ということだ(「薊恭公彬」と同一人物である可能性だってある)。



曹操が生きていた時代なら県侯だって珍しい部類なので、「海陽哀侯」もむしろかなり格上の地位を贈られたことになる。




だが、そうなると今度は「大半の功臣ですら郷侯・亭侯がほとんどの時代に、おそらくは「曹操の弟」という以外に特筆すべき事が無い人物が追尊とはいえ一足飛びに県侯になっていた」という、これはこれでちょっと曹操政権内で微妙な問題になっていそうな案件になるのかもしれない。