曹均の謎

昨日の記事の続きのようなもの。



曹均(樊安公均)の家だけが王になっていないのはどういうことか?




早死にしたから?

豐愍王昂字子脩。弱冠舉孝廉。隨太祖南征、為張繡所害。無子。黄初二年追封、諡曰豐悼公。三年、以樊安公均子琬奉昂後、封中都公。其年徙封長子公。五年、追加昂號曰豐悼王。太和三年改昂諡曰愍王。嘉平六年、以琬襲昂爵為豐王。
(『三国志』巻二十、豐愍王昂伝)

同じく早死にしたかの有名な曹昂の家は、後を継いだことになっている者(曹均の子)が王になっている。


つまり、少なくとも早死にしたからといって子孫が王になれないわけではない。




叔父の後継ぎとされたから?

東平靈王徽、奉叔公朗陵哀侯玉後。建安二十二年、封歴城侯。黄初二年、進爵為公。三年、為廬江王。
(『三国志』巻二十、東平靈王徽伝)

同じく叔父の後を継いだことにされた曹徽は、最初は侯であったのに割と早いうちに王にまでなっている。


つまり、少なくとも叔父の後を継いだことが王になれない理由ではない。



曹操曹丕に嫌われたから?

樂陵王茂、建安二十二年封萬歳亭侯。二十三年、改封平輿侯。黄初三年、進爵、徙封乗氏公。七年、徙封中丘。茂性慠佷、少無寵於太祖。及文帝世、又獨不王。太和元年、徙封聊城公、其年為王。
(『三国志』巻二十、樂陵王茂伝)

曹茂ははっきりと曹操に愛されていなかったと書かれており、曹丕もそれに従ったようだったが、結局は烈祖様時代になって王になれている。


つまり、少なくとも曹操曹丕に嫌われたことが王になれない理由ではない。






こうしてみると、ありそうな理由に大体反例がある。



あとは生母または実家が相当に低い家柄・身分、というところだろうか。


ただこれはそもそも比較が困難。どういう生母・実家かというのもよくわからないし。





結論、よくわからない。


ただ、数代続きながら、しかも他家に出した養子が王になっていたりしているのに曹均自身の家は公止まりというのは、曹魏においては多分唯一。


こうなると逆に何か特殊な人物だったんじゃないかとまで思えてくる。*1

*1:まあ、実は「王になっていたけど記述が抜け落ちているだけ」という可能性だってあるといえばある。