孫晧の気持ち

孫晧即位、封高陵亭侯、遷中書僕射、職省、為侍中、常領左國史。
時所在承指數言瑞應。晧以問(韋)曜、曜答曰「此人家筐篋中物耳。」又晧欲為父和作紀、曜執以和不登帝位、宜名為傳。如是者非一、漸見責怒。
(『三国志』巻六十五、韋曜伝)


かの韋曜(韋昭)はあの孫晧の怒りを招いて誅殺されたが、その一因は「孫晧の父である皇太子孫和の本紀を立てようとしなかった」という点だったという。



韋昭の「皇帝に即位していないから「伝」であるべきだ」というのは、一見もっともである。




だがよく考えると、あの陳寿三国志』ですらこれは守られていない。魏の曹操のために「武帝紀」が立てられているではないか。


おそらく、孫晧の時にはあったはずの『魏書』『魏略』などでも同様に扱われていたのではないか?



当時の史家たちは「皇帝に即位していない者の本紀を立てている」と思われるのである。



孫晧にしてみれば、「逆賊曹操の本紀はあるのに、皇帝になれなかったとはいえ本来なら皇帝になるはずだった父の本紀が無いのはおかしい。韋昭の言い分は筋が通らない」と感じていたのではないか。




それに、以前の記事などの話からすれば、おそらくは韋昭も孫晧の都合の良いような編集、曲筆をまるでやっていないわけではないだろうと思う。



これまで自分の意を受けた編集を色々やってきたくせに、曹操という実例があるにも関わらず皇帝でなかった父の本紀は立てないと言う。



孫晧からすれば韋昭の言動は編集態度としても皇帝である自分への態度としても一貫性を感じなかっただろう。



孫晧目線では彼は処分されて当然の二枚舌クソ野郎だったのかもしれない。