孝廉と茂才

孫權字仲謀。兄策既定諸郡、時權年十五、以為陽羨長。郡察孝廉、州舉茂才、行奉義校尉。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)


この「郡察孝廉、州舉茂才」ってよく考えたら面白くないか?



同時に孝廉と茂才に挙げられた?



それとも孝廉に推挙され、それとは別のタイミングで茂才になった?



その間は特に官位は変わらないままだった?




まあ、当時は孝廉・茂才の制度が平常時のようには機能してなかったんだろうから、孝廉ということにはなったけど中央に呼ばれたりはしなかった、というのは何もおかしくないだろうし、それからまた別の時には茂才になった、というのもありうるかもしれない。