『潜夫論』を読んでみよう−実辺篇その6

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140930/1412004724の続き。

詔書法令、二十萬口、邊郡十萬、歳舉孝廉一人、員除世舉廉吏一人。羌反以來、戸口減少、又數易太守、至十歳不得舉、當職勤勞而不録、賢俊蓄積而悉、衣冠無所覬望、農夫無所貪利、是以逐稼中災、莫肯就外。
古之利其民、誘之以利、弗脅以刑。易曰「先王以省方觀民設教。」是故建武初得邊郡、戸雖數百、令歳舉孝廉、以召來人。
今誠宜權時、令邊郡舉孝一人、廉吏世舉一人、又益置明經百石一人。内郡人將妻子來召著五歳以上與居民同、均皆得選舉。又募運民、耕邊入穀、遠郡千斛、近郡二千斛、拜爵五大夫。可不欲爵者、使食倍賈於内郡。
如此、君子小人、各有所利、則雖欲令無往、弗能正也。此均苦樂、平徭役、充邊境、安中國之要術也。
(『潜夫論』実辺第二十四)


詔によれば、人口二十万人、辺郡では十万人ごとに孝廉を毎年1人推挙でき、30人ごとに廉吏を1人推挙できる。



だが羌族の反乱以降は人口減少と太守が何度も変更するせいで、十年たっても推挙できず、職を真面目に勤め上げてもそれが記録されず、優秀な人材も蓄積されるだけで望みは無く、農民も余禄を受けることができない。



そのため災いに遭ってでも作物を優先しようとし、外部への避難もしようとしないのである。




かつて、民を治めるには利益によって民を誘導し、刑罰で脅しはしないものだった。


『易』でも「偉大なる王は四方を視察し、民の様子を見て教えを設けた」と言っている。



ゆえに光武帝もかつて辺郡は戸数数百であっても毎年孝廉の推挙を認めることで辺郡に人を呼んだのである。




今現在こそ特別措置法を制定する時である。



辺郡には人口に関係なく毎年孝廉推挙、30人ごとの廉吏推挙を認めるべきである。


また明経の推挙を百戸ごとに1人*1増員すべきである。

内郡の人間でも辺郡に移住して民と共に暮らして五年経てば、元からの住民同様に推挙対象とすべきである。



また民間に穀物の納入を募り、辺郡から千斛、内郡から二千斛を辺郡へ輸送した者には五大夫の爵位か、欲しない者には内郡の二倍の対価を与えるべきである。




このようにして君子も小人もどちらも利益を得られるなら、避難の際に行くなと言っても止めることはできないだろう。




これぞ苦楽や徭役を均等にし、辺境を人や物資で満たし、中国を安んずる方法である。




「人口比で孝廉などの人材推挙の数が決まる」という制度は辺郡にとっては「一票の逆格差」状態であり、利益が得られないため命令も聞き入れられず賊に付いてしまう原因だ、と王符先生。




だが辺郡では人口比を当面は止めろ、5年住んだら孝廉になれるようにしろ、という。


こうすれば内郡では孝廉の順番待ちとなっている人材が辺郡にやってくる、という寸法である。



そして続々と辺郡出身者が孝廉などに推挙されれば、朝廷の大臣や太守にも辺郡出身で利害が切迫している者が増え、辺郡統治を真剣に考えるようになる。


そうすれば従前のような無様なことにはならず、辺郡は保たれ内郡も心配する必要が無い・・・ということなのだろう。



そして物資についてもかつて前漢の晁錯が提案したような、爵位で釣る政策を提案する。



直接間接の利益で民や士大夫を辺郡へ誘導しよう、というのが「実辺(辺を満たす)」の意味であったのだ。



裏返せば、それだけ涼州などの辺郡は経済的にも政治的にも劣悪な状況に置かれ続けてきた、ということであろう。


現地の人間にとっては、異民族が攻めてくること自体ではなく、辺郡全体の発言力が弱いことこそが問題だと感じていたのかもしれない。






というわけで、反応も薄くなっていたがこれで「実辺篇」は終わりである。


次どうするかは未定。『潜夫論』はこれで終わるかもしんまい。

*1:『潜夫論箋校正』では「百石」は「百戸」ではないか、という。明経は地方からの人材推挙の一科目なので、その方が正しいかもしれない。