曹操称帝積極説

西伯陰行善、諸侯皆來決平。於是虞・芮之人有獄不能決乃如周。入界、耕者皆讓畔、民俗皆讓長。虞・芮之人未見西伯、皆慙、相謂曰「吾所爭、周人所恥。何往為、祇取辱耳。」遂還、倶讓而去。諸侯聞之曰「西伯蓋受命之君」。
・・・(中略)・・・
詩人道、西伯蓋受命之年稱王而斷虞・芮之訟。
(『史記』巻四、周本紀)

史記』周本紀によると、周の文王(西伯)は諸侯の尊崇を受けて「彼は受命の君ではないか」と言われるようになり、それから王を称するようになった、と言ったようなことが書かれている。


つまり、『史記』で「周の文王は殷の紂王が健在なうちから王を名乗るようになっていた」という説が明記されている。



その説に従えば周の文王は当時の天子である殷王と同等の地位を自ら名乗っていたことになるのだ。




そうなると、曹操が言ったとされる「施于有政、是亦為政。若天命在吾、吾為周文王矣」という言葉も、「周の文王が殷には関係なく同等の王を称したように、自分も漢に関係なく自分の領域内で皇帝を称することにする*1」といった意味合いのつもりだった、という解釈もできてしまうのではなかろうか。



つまり、その発言をした頃の曹操は自ら皇帝を称することに肯定的だった、という可能性がある。

*1:「施于有政、是亦為政」についても、「天下全体を無理に自ら統治しようととせずとも、魏の領内をきちんと統治していけば、自然に天下すべてに風化が行きわたるだろう」といった意味なのかもしれない。