軍略家武王

是時、諸侯不期而會盟津者八百諸侯。諸侯皆曰「紂可伐矣。」武王曰「女未知天命、未可也。」乃還師歸。
居二年、聞紂昏亂暴虐滋甚、殺王子比干、囚箕子、太師疵・少師彊抱其樂器而犇周。
於是武王徧告諸侯曰「殷有重罪、不可以不畢伐。」乃遵文王、遂率戎車三百乗、虎賁三千人、甲士四萬五千人、以東伐紂。
(『史記』巻四、周本紀)

周の武王は約束も無いまま800もの諸侯が自分の元に集ってくるという状態ではあったが、それでも今は敵対する殷の紂王を討つ時ではない、として引き返した。


その2年後、紂が更に暴政を行って人心が離れているとして、武王は改めて殷を討伐する軍を興した。



これ、武王は敢えて紂王を放置して殷内部の混乱を待つという策略か・・・。




勝ち負けだけなら2年前の段階で勝てるとしても、より少ない被害で、より確実に勝つために、混乱が生じる可能性が高かった殷の混乱を敢えて待った、というところか。



中々の軍略。