三互

初、朝議以州郡相黨、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得對相監臨。至是復有三互法、禁忌轉密、選用艱難。
【注】
三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拜平原相」是也。
(『後漢書』列伝第五十下、蔡邕伝)

昨日の話だが、後漢頃においては「姻族、および自分か姻族の州の人間は監視相手にはならない」という制度と、「三互法」と呼ばれる「自分または姻族の出身州(郡?)の官には就かない」という制度があったようだ(いつから始まったのか分からないが)。


情実による不正が横行するのを防ぐということだろう。




前者は多分「太守と刺史」のような監督・監察の関係を指すのだと思う。



後者は少なくとも自分の出身の長官にはならないという形では後漢末でもできる限り運用されていた形跡がある。たぶん、太守などの長官あるいは勅任官にだけ適用されたのだと思う。




「婚姻の家」というのが妻の家だけを指すのか、母の家も指すのか、ここだけだとわからないが、何にしてもこのような制度があるのであれば妻は極力同じ州・同じ郡とした方が仕官の上で合理的だったことになる。




というか、他州郡の家と婚姻すると、赴任できない場所が増えてしまうわけだ。これでは、赴任先を選び放題という家などでもなければ不利なことばかりである。


このころの官僚たちの経歴を見ると同郡出身同士の婚姻が連続することが多いのは、これも理由の一つなのだろう。