張軌の人気取り

初、漢末金城人陽成遠殺太守以叛、郡人馮忠赴尸號哭、嘔血而死。張掖人呉詠為護羌校尉馬賢所辟、後為太尉龐參掾、參・賢相誣、罪應死、各引詠為證、詠計理無両直、遂自刎而死。參・賢慚悔、自相和釋。(張)軌皆祭其墓而旌其子孫。
(『晋書』巻八十六、張軌伝)

漢代の涼州で、金城太守を郡人陽成遠という者が殺害して反乱を起こしたという事件があったそうだ。



いつの話なのかイマイチよくわからない。



「漢末」とあるが前漢の末なのか後漢の末なのか・・・。




その際に晒し者になった遺体に駆け寄り泣き叫んだ(葬礼)者*1や、大臣二人の板挟みとなって自殺した者といった義理堅い者を晋の張軌は称揚したという。





これらの事ってまず確実に百年以上昔のことなんだが、涼州独自の気風か知らないが良く憶えているものだ。

*1:反乱者陽成遠は殺害した太守を罪人として断じて晒し者にしたのだろうか。