のけ者

樊安公均、奉叔父薊恭公彬後。建安二十二年、封樊侯。二十四年薨。子抗嗣。黄初二年、追進公爵、諡曰安公。三年、徙封抗薊公。四年、徙封屯留公。景初元年薨、諡曰定公。子諶嗣。景初・正元・景元中、累增邑、并前千九百戸。
(『三国志』巻二十、樊安公均伝)

曹操の子の一人曹均は、叔父の後を継ぐということとなって樊侯となり、その子の曹抗は樊公、薊公、屯留公と変わっていった。



つまり、上記の記録によると一度も王になっていない。



早死にしたためかもしれないが、さすがに何とかしてやれよ、と思わないでもない。


豐愍王昂字子脩。弱冠舉孝廉。隨太祖南征、為張繡所害。無子。黄初二年追封、諡曰豐悼公。三年、以樊安公均子琬奉昂後、封中都公。其年徙封長子公。五年、追加昂號曰豐悼王。太和三年改昂諡曰愍王。嘉平六年、以琬襲昂爵為豐王。正元・景元中、累增邑、并前二千七百戸。琬薨、諡曰恭王。子廉嗣。
(『三国志』巻二十、豐愍王昂伝)

范陽閔王矩、早薨、無子。建安二十二年、以樊安公均子敏奉矩後、封臨晉侯。黄初三年追封諡矩為范陽閔公。五年、改封敏范陽王。七年、徙封句陽、太和六年、追進矩號曰范陽閔王、改封敏琅邪王。景初・正元・景元中、累增邑、并前三千四百戸。敏薨、諡曰原王。子焜嗣。
(『三国志』巻二十、范陽閔王矩伝)

北海悼王蕤、黄初七年、明帝即位、立為陽平縣王。太和六年、改封北海。青龍元年薨。二年、以琅邪王子贊奉蕤後、封昌郷公。景初二年、立為饒安王。正始七年、徙封文安。正元・景元中、累增邑、并前三千五百戸。
(『三国志』巻二十、北海悼王蕤伝)

なのに、樊安公均の子孫からは少なくとも3人の王が立っており、本家は公のままなのに分家が次々王になるという現状が起こっている。



こうなると、いよいよ樊安公均の本家だけが公のままだった理由がよくわからない。いじめレベルである。


何か曹操曹丕か烈祖様に余程嫌われるような何かがあったのか?




あと、建安22年の時点で子を他家に出せるということは、すでに何人か子がいたということであり、この樊安公均は結構高齢だったのではないか?