建安十八年、太祖召為丞相軍議掾、後為歴城侯(曹)徽文學、轉為相。徽遭太祖喪、不哀、反游獵馳騁。(高堂)隆以義正諫、甚得輔導之節。
(『三国志』巻二十五、高堂隆伝)
曹操の息子の一人、歴城侯曹徽。彼は父曹操が死去した際、追悼の意を表さなかったばかりか、狩猟に興じるありさまであった。
歴城侯相(曹徽の領国の統治担当)であった高堂隆はそんな曹徽を諫言したのだという。
東平靈王徽、奉叔公朗陵哀侯玉後。建安二十二年、封歴城侯。黄初二年、進爵為公。三年、為廬江王。
(『三国志』巻二十、東平霊王徽伝)
ただ、親不孝という当時の常識ではかなりの問題行動があった割には、曹徽がこの時のことで何か処罰されたり不興を買ったりという形跡がない*1。
それは何故だろうか・・・。
あれ、そういえば曹丕にも狩猟について何かエピソードがあったような・・・あっ(察し)