魯の神書

魯恭王餘以孝景前二年立為淮陽王。呉楚反破後、以孝景前三年徙王魯。好治宮室苑囿狗馬、季年好音、不喜辭。為人口吃難言。二十八年薨。
子安王光嗣、初好音樂輿馬、晚節遴、唯恐不足於財。四十年薨。
子孝王慶忌嗣、三十七年薨。
子頃王勁嗣、二十八年薨。
子文王睃嗣、十八年薨、亡子、國除。
哀帝建平三年、復立頃王子睃弟郚郷侯閔為王。王莽時絶。
(『漢書』巻五十三、魯恭王余伝)

前漢の魯王劉余(景帝の子)の子孫は魯王を継いでいたが、魯王閔の時に王莽の即位があって王国は断絶した。




だが実はこの魯王の物語には続きがある。


建平三年六月辛卯、王閔以頃王子郚郷侯紹封、十三年、王莽篡位、貶為公。
明年、獻神書言莽徳、封列侯、賜姓王。
(『漢書』巻十四、諸侯王表、魯共王余)

この(元)魯王劉閔は、王莽の偉大な徳を称える「神書」を献上して王莽と同じ王氏にしてもらったのだという。




まあ普通に考えてでっち上げのおべんちゃらなんだろうが、失われた地位や待遇を取り戻そうとしたのだろう。




恭王初好治宮室、壞孔子舊宅以廣其宮、聞鐘磬琴瑟之聲、遂不敢復壞、於其壁中得古文經傳。
(『漢書』巻五十三、魯恭王余伝)


思うに、彼らの領土だった魯国というと孔子こと孔丘先生のホームグラウンドだし、初代魯恭王の時に「孔丘先生の旧宅をぶっ壊したら古代の書物が発見された」という話も残っているので、劉閔も同じように「孔丘先生ゆかりの文書が発見されました」みたいな感じで「神書」を献上したんじゃないだろうか。