王氏三代

(王)吉意以為・・・(中略)・・・又言「舜・湯不用三公九卿之世而舉皋陶・伊尹、不仁者遠。今使俗吏得任子弟、率多驕驁、不通古今、至於積功治人、亡益於民、此伐檀所為作也。宜明選求賢、除任子之令。外家及故人可厚以財、不宜居位。去角抵、減樂府、省尚方、明視天下以儉。古者工不造琱瑑、商不通侈靡、非工商之獨賢、政教使之然也。民見儉則歸本、本立而末成。」
(『漢書』巻七十二、王吉伝)

前漢儒者(琅邪王氏)王吉は、任官は能力主義にすべきで、高官の子弟を幹部候補生(郎)として採用する「任子」制度を廃止すべきだと説いた。


初、(王)吉兼通五經、能為騶氏春秋、以詩・論語教授、好梁丘賀説易、令子駿受焉。駿以孝廉為郎。
(『漢書』巻七十二、王吉伝)

その子王駿も儒学を学び、「孝廉」によって幹部候補生である「郎」となった。実力を認められて任官したと言っていいだろう。父の主張どおりにしたとも言えそうだ。


(王)駿子崇以父任為郎、歴刺史・郡守、治有能名。
(『漢書』巻七十二、王吉伝)


王駿の子王崇は、父王駿の「任子」によって幹部候補生である「郎」となった。




・・・ん?



王駿自身は子の任官に際しては父王吉の主張通りにしておらず、王崇は実力主義での採用ではない任子制度によって採用された。



王崇は実力では任官できなかったという事なのかもしれないが、それにしても父(祖父)の主張とは全くの真逆の事をしてしまうというのは一種のギャグだろう。父の主張全否定ではないか。



自(王)吉至崇、世名清廉、然材器名稱稍不能及父、而祿位彌隆。
(『漢書』巻七十二、王吉伝)


漢書』王吉伝中で、王吉たちは三代にわたって清廉と言われたが、実力も名声も父には及ばず、地位は高くなった、といった風に言われている。つまり能力や品格では代を降るごとに下がっていったと思われているということだが、任子の一件だけでも当時の人々にしてみれば確かにレベル低下を嘆かれても仕方ない事かもしれない。