『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その1

王莽字巨君、孝元皇后之弟子也。
元后父及兄弟皆以元・成世封侯、居位輔政、家凡九侯五大司馬、語在元后傳。唯莽父曼蚤死、不侯。
莽羣兄弟皆將軍五侯子、乗時侈靡、以輿馬聲色佚游相高、莽獨孤貧、因折節為恭儉。受禮經、師事沛郡陳參、勤身博學、被服如儒生。事母及寡嫂、養孤兄子、行甚敕備。又外交英俊、内事諸父、曲有禮意。
陽朔中、世父大將軍鳳病、莽侍疾、親嘗藥、亂首垢面、不解衣帯連月。鳳且死、以託太后及帝、拜為黄門郎、遷射聲校尉。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は字巨君。元帝の皇后王氏(元后)の弟の子である。



元后の父や兄弟は元帝・次の成帝の時代に列侯に封じられたり、執政の地位に就いたりして、王氏で九侯家、五人の大司馬を輩出した。そのあたりは『漢書』元后伝を参照せよ。


ただ王莽の父王曼だけは早死にしたために列侯になれなかった。



王莽の従兄弟たちはみな将軍や五侯の子たちで、調子に乗って贅沢三昧であったが、王莽だけは父を失い貧しい境遇に置かれ、つつましく生きていた。『儀礼』を沛郡の陳参という者から学び、儒学者と同じ格好に身を包んでいた。


また母や夫に先立たれた兄嫁に対して仕え、父を失った兄の子を養育し、徳行は大変行き届いていた。



一方で世間の高名な人物や伯父・叔父たちにも意を曲げて礼を尽くした。




陽朔年間、王莽の伯父で大司馬大将軍であった王鳳が病の床にあった時には、王莽は自ら看病し、薬の毒見も行い、何か月も休みなく働いた。王鳳がいよいよ危篤の際には、元后と成帝に王莽のことをよろしく頼むと託したので、黄門郎になり、射声校尉に昇進した。



王莽の血統については以前の記事を参照



王莽は彼ら王氏が高貴な身分になったそもそもの発端である元帝の王皇后(元后)から見ると甥であること、親族が位人臣を極める中で明らかに一歩下がった扱いを受けていたこと、他の親族たちはその身分や財力をバックに横暴や度を超えた贅沢などがあって世間から白い眼で見られていた中、王莽だけは清貧と徳行をアピールしていた、ということが今回のポイント。