3つの姓

煮棗侯乗昌為奉常。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、景帝中三年)

煑棗端侯革朱
・・・(中略)・・・
孝景中二年侯嗣。二年、有罪、免。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、煑棗端侯革朱)

景帝の頃、「煮棗侯」が奉常となったが、『漢書』百官公卿表下では「乗昌」つまり「乗」氏となっており、一方で『漢書』高恵高后文功臣表では「煮棗侯」は「革」氏となっている。

奉常になったのは「革昌」ということになる。


十二年六月壬辰、靖侯赤元年。
【注】
索隠、煮棗端侯棘朱。漢表作「端侯革朱」、革音棘、亦作「束」、誤也。棘、姓、蓋子成之後也。
(『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、煮棗侯)


史記』高祖功臣侯者年表では姓が記録されていないが、注の『史記索隠』では「棘」氏だとされている。




景帝中3年の奉常であった煮棗侯は、姓が三種類伝わっているという事になる。



いったいどれが正しいのか。