東平の呂氏

(建安八年)冬十月、到黎陽、為子(曹)整與(袁)譚結婚。(袁)尚聞公北、乃釋平原還鄴。
東平呂曠・呂翔叛尚、屯陽平、率其衆降、封為列侯。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安八年)

曹操袁紹の子袁尚らと戦っていた時、東平の人呂曠・呂翔が袁尚に背いて曹操に降伏した。




しかしよくよく考えてみると、東平国というのは兗州にある。つまり、曹操支配圏だったはずのところの人間である。




もちろん、兗州の人間が全員曹操側だったとは限らない。


曹操兗州牧になる前から県令や太守などであった可能性だってある。


しかし、この呂曠・呂翔の場合、同族と思われる者が行動を共にしていたわけだから、官僚であったというよりは在地豪族の類が私兵を率いていた可能性の方が高い気がする。立場的には李典が近いかもしれない。




そうなると、呂曠・呂翔は在地豪族の類でありながら、故地の州牧曹操ではなく袁紹袁尚に付いていた事になる。




袁紹が攻めてきた時、兗州は守将程昱が満足な兵を持っておらず、「兵を増強しない方が攻めて来ないからいい」と言っていた。これは、呂曠・呂翔のような者の多くがこの時に曹操から離反して袁紹側に付いたという事かもしれない。



呂曠・呂翔は袁紹の攻撃が始まると兗州の反曹操・親袁紹勢力となり、袁紹が退いた時に一緒に付いて行ったのではなかろうか。