建安3年頃、袁紹は公孫瓉と戦っており、一方で曹操は李傕・呂布・張楊といった勢力を下し、袁術を退けていた。
示し合わせたわけではないのだろうけど、袁紹と曹操はそれぞれが自分にとっての背後の敵を早急に下し、それから袁紹は曹操を、曹操は袁紹をその敵と挟み撃ちにしよう、という戦略でいたんじゃないかと思う。
精密に検討したわけじゃないが、そこまでの時点なら両者の軍事力に大きな差はなかっただろうと思う。むしろ曹操優位だったのかもしれない。
この戦略はまずは曹操が成功しかけたが、袁紹が思った以上に早く公孫瓉を下したことと、曹操が献帝から殺害命令を出され劉備に背かれたことで大逆転を果たし、袁紹の方が冀州牧袁紹・青州刺史袁譚・予州牧劉備による包囲を作り出すことに成功した、ということになるのだろう。
その戦略的な敗北を力技で再逆転したというのが官渡だったのだと思う。