『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その27

その26(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/30/000100)の続き。





八年冬十月己巳、公卿初迎冬於北郊、總章始復備八佾舞。
初置司直官、督中都官。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安8年。



司直というのは前漢では丞相(大司徒)直属の監察官だった。



但しこの時の司直は司徒には属しなかったという。


その割に「司空司直」という表記はあるのだが・・・。この時の司空って・・・あっ・・・。



八年春三月、攻其郭、乃出戰、撃、大破之、(袁)譚・尚夜遁。
夏四月、進軍鄴。
五月還許、留賈信屯黎陽。
己酉、令曰「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐括。是古之將者、軍破于外、而家受罪于内也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
秋七月、令曰「喪亂已來、十有五年、後生者不見仁義禮讓之風、吾甚傷之。其令郡國各脩文學、縣滿五百戸置校官、選其郷之俊造而教學之、庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」
八月、公征劉表、軍西平。
公之去鄴而南也、譚・尚爭冀州、譚為尚所敗、走保平原。尚攻之急、譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑、荀攸勸公許之、公乃引軍還。
冬十月、到黎陽、為子整與譚結婚。尚聞公北、乃釋平原還鄴。東平呂曠・呂翔叛尚、屯陽平、率其衆降、封為列侯。
(『三国志』巻一、武帝紀)


曹操と袁氏の間では戦が続いていた。途中で曹操劉表に目を向けるが、そうなるとすぐに袁譚袁尚が仲良く喧嘩し始める。



袁譚袁尚に勝とうと曹操への接近を図る。



敵の敵は味方」みたいな感覚だろうか。