部下も認めた

後從曹休征呉、與賊遇於夾石、休軍失利、(王)淩力戰決圍、休得免難。
(『三国志』巻二十八、王淩伝)

魏の王淩は曹休が呉を攻めた時に配下にいたが、そこで曹休がやらかして大敗孤立した。



その時に王淩の奮戦によって曹休は救われたのだという。いわば、王淩は上司曹休のために力闘したのだ。


干寶晉紀曰、(王)淩到項、見賈逵祠在水側、淩呼曰「賈梁道、王淩固忠于魏之社稷者、唯爾有神、知之。」其年八月、太傅有疾、夢淩・逵為癘、甚惡之、遂薨。
(『三国志』巻二十八、王淩伝注引干宝『晋紀』)

そんな王淩が司馬懿に捕まった時、王淩は通りかかったところにあった賈逵の祠に対して自分の魏への忠義を訴えている。


この文脈では、魏に対する忠義者と評判の賈逵に自分の正義を訴えたという事なのだろう。





ん?賈逵?

魏略曰、(曹)休怨(賈)逵進遲乃呵責逵、遂使主者敕豫州刺史往拾棄仗。逵恃心直、謂休曰「本為國家作豫州刺史、不來相為拾棄仗也。」乃引軍還。遂與休更相表奏、朝廷雖知逵直、猶以休為宗室任重、兩無所非也。
魏書云、休猶挾前意、欲以後期罪逵、逵終無言、時人益以此多逵。
(『三国志』巻十五、賈逵伝注)

賈逵といえば、王淩奮戦の時の上司曹休が自分の敗戦の責任があると言っていた相手である。




だが王淩の最後の行動を見るに、王淩もこの時の件で公正であったのは賈逵であったと思っていたのだろう。遅刻を曹休に指摘されて無視するヤツという扱いなら、自分の忠義を訴える相手にはなりそうにない。




言い換えれば、下で働いていた王淩から見ても、曹休の戦後の言動は妥当ではなかったのだろう。




そんな人物を魏は宗室の重鎮だからという事で処分しないでいた、という事らしい。