翕侯趙信(元光4年):匈奴相
持装侯楽(元光6年):匈奴都尉
親陽侯月氏(元朔2年):匈奴相
若陽侯猛(元朔2年):匈奴相
渉安侯於単(元朔3年):匈奴単于太子
昌武侯趙安稽(元朔4年):匈奴王
襄城(襄武)侯無龍(桀龍)(元朔4年):匈奴相国
潦侯趙王煖訾(元狩元年):匈奴趙王
下麾侯呼毒尼(元狩2年):匈奴王
漯陰侯渾邪(元狩2年):匈奴渾邪王
煇渠侯扁訾(元狩3年):匈奴王
河綦侯烏犂(元狩3年):匈奴右王
常楽侯稠雕(元狩3年):匈奴大当戸
壮侯復陸支(元狩4年):匈奴帰義因淳王
衆利侯伊即軒(元狩4年):匈奴帰義樓剸王
湘成侯敞屠洛(元狩4年):匈奴符離王
散侯董荼吾(元狩4年):匈奴都尉
臧馬侯延年(雕延年)(元狩4年):匈奴王
瞭侯次公(元鼎4年):匈奴帰義王
匈奴ネームっぽい者が多いが、趙信のように漢風の名前も見える。
元からそういう名前だった可能性もあるだろうし、どこかで漢風の姓名を名乗る、または賜ったという可能性もあるだろう。
また「渾邪王」の名が「渾邪」だったり「匈奴趙王」の名が「趙王煖訾」だったりと、匈奴における官位(爵位?)をそのまま名としているんじゃないかという例もある。
結論、武帝の頃、匈奴からの降伏者で漢風の名前を名乗っているのは多くは無い。彼らの多くは匈奴風の名をそのまま名乗り続けたのではなかろうか。
あるいは、匈奴風の名前をそのまま漢における姓名として使ったのかもしれない。
何にせよ、名の方を漢に寄せる傾向はあまりない。多分。
後の金日磾の例は特別な恩寵によるものだったのか?