自称皇太子の真贋

始元五年、有一男子乗黄犢車、建黄旐、衣黄襜褕、著黄冒、詣北闕、自謂衛太子。公車以聞、詔使公卿將軍中二千石雜識視。長安中吏民聚觀者數萬人。右將軍勒兵闕下、以備非常。丞相御史中二千石至者並莫敢發言。
京兆尹(雋)不疑後到、叱從吏收縛。或曰「是非未可知,且安之。」不疑曰「諸君何患於衛太子!昔蒯聵違命出奔、輒距而不納、春秋是之。衛太子得罪先帝、亡不即死、今來自詣、此罪人也。」遂送詔獄。
天子與大將軍霍光聞而嘉之曰「公卿大臣當用經術明於大誼。」繇是名聲重於朝廷、在位者皆自以不及也。
大將軍光欲以女妻之、不疑固辭、不肯當。久之、以病免、終於家。京師紀之。
後趙廣漢為京兆尹、言「我禁姦止邪、行於吏民、至於朝廷事、不及不疑遠甚。」
廷尉驗治何人、竟得姦詐。本夏陽人、姓成名方遂、居湖、以卜筮為事。有故太子舍人嘗從方遂卜、謂曰「子状貌甚似衛太子。」方遂心利其言、幾得以富貴、即詐自稱詣闕。廷尉逮召郷里識知者張宗祿等、方遂坐誣罔不道、要斬東巿。一云姓張名延年。
(『漢書』巻七十一、雋不疑伝)

漢の武帝の末期に父武帝に反旗を翻した皇太子(衛太子)。



この衛太子は反乱に失敗して逃げたが捕捉されて湖県で死んだとされている。




だが、次の昭帝(衛太子の異母弟という事になる)の時、衛太子を名乗る者が黄色い衣装に身を包んで長安の宮殿の前に現れたのだという。



事の真偽を当時の大臣・将軍・官僚たちに確認させたが、誰も発言しない。そんな中、当時長安を含む首都の長官と言うべき京兆尹雋不疑は「もし本物だったとしても、もともと衛太子は謀反人。捕まえるのが当然」と言い、自称皇太子を捕縛した。




結果、自称皇太子は偽物だったという事で決着した。だが、なぜ雋不疑以外の大臣らは雋不疑の言ったような思い切った言動を取れなかったのだろうか?


夏、漢改暦、以正月為歳首、而色上黄、官更印章以五字、因為太初元年。
(『漢書』巻二十五下、郊祀志下)

この頃、漢王朝においてはいわゆる五行の色のうち「黄」を王朝の色と認定していた。



とすると、自称皇太子が衣装や装備を黄色で統一しているのは偶然やラッキーカラーといった程度のコーディネートではなく、極めて政治的な意味がある。



そして、そういった「皇帝の色」の衣装などを、どこの馬の骨かも分からないヤツが独力で揃えられたのかというと、かなり難しいだろうと思われる訳だ。正確なところは分からないが、「ご禁制」であってもおかしくない。




つまり、この「皇帝カラーである黄色の衣装に身を包んだ自称皇太子」は、本物であるにしろ、そうでないにしろ、皇帝カラーを揃える謎の力(神秘の力か、黒幕の政治力か)があった、という事ではないか。



当時の大臣や将軍たちも愚鈍ではなかろうから、殆どの者はそういった可能性にすぐ思い至ったに違いない。そして、本物だけが持つ神秘の力かもしれない、謎の黒幕の意図は何なのか、といった事まで考えたら、この自称皇太子を捕まえる言い出しっぺにはなりたくない、と及び腰になったのではないだろうか。



それだけに雋不疑の判断は秩序維持の観点からは猶の事称賛に価するのだろうが、そうしなかった者たちも、慎重にしたくなるだけの理由はあったという事だ。




そもそも、雋不疑にしても「本物であっても罪人である」と言っており、本物ではないと看破したというよりは、本物であっても捕らえるべきだ、という主張である。自称皇太子の真贋については、雋不疑を含むその場の誰もが断言はしなかったのだ。




この時の黄色い衣装は、この自称皇太子に変なリアリティと底知れない謎を見る者に与えていたのではなかろうか。