『漢書』成帝紀を読んでみよう:その1

ちょっと前まで『漢書元帝紀を見てきたので、もうこうなったらついでに『漢書』成帝紀も同じように見ていこうじゃないか。



中国の皇帝の中でも外戚が幅を効かせた事で有名な皇帝といえば成帝だが、それ以外の側面も見えてくるかもしれない。






孝成皇帝、元帝太子也。母曰王皇后、元帝在太子宮生甲觀畫堂、為世嫡皇孫。宣帝愛之、字曰太孫、常置左右。
年三歳而宣帝崩、元帝即位、帝為太子。
壯好經書、𥶡博謹慎。初居桂宮、上嘗急召、太子出龍樓門、不敢絶馳道、西至直城門、得絶乃度、還入作室門。上遲之、問其故、以状對。上大節説、乃著令、令太子得絶馳道云。其後幸酒、樂燕樂、上不以為能。而定陶恭王有材藝、母傅昭儀又愛幸、上以故常有意欲以恭王為嗣。頼侍中史丹護太子家、輔助有力、上亦以先帝尤愛太子、故得無廢。
(『漢書』巻十、成帝紀


成帝は元帝の長男であり、祖父の宣帝が溺愛したのだという。初孫であったというばかりでなく、早くに失った正妻許皇后の血を引いていたからかもしれない。



歳餘、會皇太子所愛幸司馬良娣病、且死、謂太子曰「妾死非天命,乃諸娣妾良人更祝詛殺我。」太子憐之、且以為然。及司馬良娣死、太子悲恚發病、忽忽不樂、因以過怒諸娣妾、莫得進見者。
久之、宣帝聞太子恨過諸娣妾、欲順適其意、乃令皇后擇後宮家人子可以虞侍太子者、政君與在其中。及太子朝、皇后乃見政君等五人、微令旁長御問知太子所欲。太子殊無意於五人者、不得已於皇后、彊應曰「此中一人可。」是時政君坐近太子、又獨衣絳縁諸于、長御即以為是。皇后使侍中杜輔・掖庭令濁賢交送政君太子宮、見丙殿。得御幸、有身。
先是者、太子後宮娣妾以十數、御幸久者七八年、莫有子、及王妃壹幸而有身。
(『漢書』巻九十八、元后伝)

なお、成帝誕生にはこんな経緯があった。



元帝(当時皇太子)は寵姫司馬良娣が死ぬと他の妻妾が呪詛したものと考えて彼女たちを恨んだ。妻妾たちに子供を産ませる事を放棄するという事はになるわけで、後継ぎの誕生が覚束ないと心配した父宣帝・養母王皇后は成帝の母王氏ら5人を用意して元帝に会わせた。



元帝は全員チェンジしたかったらしいが、それでは王皇后に逆らう事になるので、やむなく成帝の母となる王氏とマッスルドッキングを行い、結果として成帝が生まれた、のだという。




竟寧元年、上寝疾、傅昭儀及定陶王常在左右、而皇后太子希得進見。上疾稍侵、意忽忽不平、數問尚書以景帝時立膠東王故事。
是時、太子長舅陽平侯王鳳為衛尉侍中、與皇后・太子皆憂、不知所出。
(史)丹以親密臣得侍視疾、候上間獨寝時、丹直入臥内、頓首伏青蒲上、涕泣言曰「皇太子以適長立、積十餘年、名號繫於百姓、天下莫不歸心臣子。見定陶王雅素愛幸、今者道路流言、為國生意、以為太子有動搖之議。審若此、公卿以下必以死爭、不奉詔。臣願先賜死以示羣臣!」天子素仁、不忍見丹涕泣、言又切至、上意大感、喟然太息曰「吾日困劣、而太子両王幼少、意中戀戀、亦何不念乎!然無有此議。且皇后謹慎、先帝又愛太子、吾豈可違指!駙馬都尉安所受此語?」丹即卻、頓首曰「愚臣妄聞、罪當死!」上因納、謂丹曰「吾病寖加、恐不能自還。善輔道太子、毋違我意!」丹噓唏而起。太子由是遂為嗣矣。
(『漢書』巻八十二、史丹伝)

そんな成帝は、長男として皇太子にもなりながら廃嫡の危機にあった。



しかし父元帝は成帝が宣帝に特に寵愛されていた事を思い、また史丹の決死の諫言(皇帝の寝室に踏み込んで直訴したのだから、皇帝の気持ち次第では処刑モノである)などもあり、廃嫡を見合わせたという。なんだか一代前にも似たような話を聞いたような・・・。



「景帝が武帝を皇太子に立てた時の事(それ以前に皇太子がいたが廃嫡の上で武帝が皇太子になった)」を調べさせ、新たな皇太子に立てようと思っている定陶王(劉康)とその母傅氏を自分の身近に置くなど、相当本気で廃嫡を考えていたようにも見受けられる。





ともあれ成帝は廃嫡されずに済んだのであった。