『三国志』文帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/03/000100)の続き。





七年春正月、將幸許昌許昌城南門無故自崩、帝心惡之、遂不入。
壬子、行還洛陽宮。
三月、築九華臺。
夏五月丙辰、帝疾篤、召中軍大將軍曹真・鎮軍大將軍陳羣・征東大將軍曹休・撫軍大將軍司馬宣王、並受遺詔輔嗣主。遣後宮淑媛・昭儀已下歸其家。
丁巳、帝崩于嘉福殿、時年四十。
六月戊寅、葬首陽陵。自殯及葬、皆以終制從事。
初、帝好文學、以著述為務、自所勒成垂百篇。又使諸儒撰集經傳、隨類相從、凡千餘篇、號曰皇覽。
評曰、文帝天資文藻、下筆成章、博聞彊識、才蓺兼該。若加之曠大之度、勵以公平之誠、邁志存道、克廣徳心、則古之賢主、何遠之有哉!
(『三国志』巻二、文帝紀

黄初7年。


朱建平、沛國人也。善相術、於閭巷之間、效驗非一。太祖為魏公、聞之、召為郎。文帝為五官將、坐上會客三十餘人、文帝問己年壽、又令徧相衆賓。建平曰「將軍當壽八十、至四十時當有小厄、願謹護之。」
・・・(中略)・・・
文帝黄初七年、年四十、病困、謂左右曰「建平所言八十、謂晝夜也、吾其決矣。」頃之、果崩。
(『三国志』巻二十九、方技伝、朱建平)

人相を見て寿命を言い当てるという朱建平によれば曹丕は寿命80だが、40の時に少々危なくなる、との事だった。曹丕は「80とは昼夜をそれぞれカウントして80なのだ、つまり40歳でアウツ・・・!」と死に際に解釈したそうだが、「40で少々危うくなるからちゃんと気を付けろよ」と言っていたのだから、十分気を付ける事が出来なかったのだと思うべきなのでは・・・?



曹丕、臨終となって翌日に死去。


七年夏五月、帝病篤、乃立為皇太子。丁巳、即皇帝位、大赦
(『三国志』巻三、明帝紀


烈祖様こと曹叡が皇太子となったが、文帝紀と照らし合わせると烈祖様が皇太子になったのも曹真・司馬懿らを召し出して後を頼んだ日すなわち死去前日という事だろうか。



全てがかなり急な代替わりだったのかもしれない。



数えで40歳ともなれば、まだ壮年とはいえ色々な病気が急に襲い掛かる事もある年代である。




陳寿の評によれば、曹丕は文章の才能があり博覧強記だと記し、それにもし大きな度量と公平さ、人徳が備われば古の名君たちにも負けてなかっただろう、という。


これは度量や公平さや人徳が足りなかったから実際には古の名君には程遠かった、と言い換える事も出来るだろう。



高く評価しているようで実は評価しているのかどうか怪しい評と言えるかもしれない。無論、晋の時代になってから蜀漢遺臣によって書かれた評であるという事、つまり低く見積もる傾向があったかもしれない、という事も忘れてはならないが。


とはいえ、前王朝から禅譲を受けた初代皇帝にしては少々物足りない感じのある評である事もまた否定しにくいとも思う。もちろん、感じ方は人それぞれだろう。




帝紀は以上。