『三国志』武帝紀を読んでみよう:その32

その31(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/06/000100)の続き。





十四年春三月、軍至譙、作輕舟、治水軍。
秋七月、自渦入淮、出肥水、軍合肥
辛未、令曰「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絶廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」
置揚州郡縣長吏、開芍陂屯田
十二月、軍還譙。
十五年春、下令曰「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定、此特求賢之急時也。『孟公綽為趙・魏老則優、不可以為滕・薛大夫』。若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋、唯才是舉、吾得而用之。」
冬、作銅雀臺。
(『三国志』巻一、武帝紀)

建安14年。



戦場から退いた魏武。珍しくこの2年間は自らは戦場に出ていない。



出ようにも出られないくらいの被害があったと見るべきか、敗戦により揺らいだ土台を固め直す必要があったのか、それともただただ戦争が嫌になっただけか。



(建安)十四年、(周)瑜、(曹)仁相守歳餘、所殺傷甚衆。仁委城走。(孫)權以瑜為南郡太守。劉備表權行車騎將軍、領徐州牧。備領荊州牧、屯公安。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)

何にせよ、魏武が荊州方面に戻ってこないでいる間に劉備孫権は勢力を伸長させており、劉備荊州牧、孫権の将周瑜が南郡太守となっている。



そういう意味では、この2年は、前年の赤壁の戦いと同様にこの時代のターニングポイントだったのかもしれない。





そして建安15年に出されたのが、かの有名な「唯才」の命令。


呂尚蓋嘗窮困、年老矣、以漁釣奸周西伯。西伯將出獵、卜之曰「所獲非龍非彲、非虎非羆、所獲霸王之輔」。於是周西伯獵、果遇太公於渭之陽、與語大説曰「自吾先君太公曰『當有聖人適周、周以興』。子真是邪?吾太公望子久矣。」故號之曰「太公望」、載與倶歸、立為師。
(『史記』巻三十二、斉太公世家)


「釣于渭濱」とは、あの太公望の事。


「又得無盜嫂受金而未遇無知者乎」というのは、これまた有名な陳平の事。陳平がクズ野郎だと評判になった時、彼を推挙した魏無知という人物は「私が推薦したのは能力です。どんな人格者がいてもこの乱世には役立ちませんが、陳平は役に立ちます」という事を述べたという。




みすぼらしい釣り人や自他ともに認めるクズ野郎でも能力を見込んで取り立て重用して天下をものにした、という話を引き合いに出し、それを再現する、という事のようだ。



花嫁泥棒やら謀反人と懇意にしていたやらといった醜聞のある人物でも丞相になっているというのが一番の「唯才」と言えない事も無い。