袁紹忠臣説1

三国志』の袁紹


彼は一般に自己の野望から勢力を広げ皇帝を擁する曹操と対決して敗れた人物とみなされがちであると思う。漢の献帝保護に消極的だったことなどもあって、漢王朝に対しては不忠者、というのが一般的な感想なのだろう。



だが、私に言わせるとそれは全く違う。

袁紹は当時の董卓曹操袁術孫堅劉備その他の群雄・諸将と比べて、漢王朝をずっと真剣に立て直そうとした人物なのである。

以下、そのことについて論じていこうと思う。



【その1】

頃之、(董)卓議欲廢立、謂(袁)紹曰「天下之主、宜得賢明、毎念靈帝、令人憤毒。董侯似可、今當立之。」紹曰「今上富於春秋、未有不善宣於天下。若公違禮任情、廢嫡立庶、恐衆議未安。」卓案劒叱紹曰「豎子敢然!天下之事、豈不在我?我欲為之、誰敢不從!」紹詭對曰「此國之大事、請出與太傅議之。」卓復言「劉氏種不足復遺」。紹勃然曰「天下健者、豈惟董公!」膻刀長揖徑出。懸節於上東門、而奔冀州
(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝上)

皇帝(少帝劉弁)を廃位して劉協(献帝)を立てようとする董卓に、袁紹は非を唱えて都を出奔したという。

もっとも『三国志』ではそんな勇ましい感じではなく、「ええわかりました太傅と相談します」とその場しのぎの嘘をついて逃げ出したことになっている。


ここで大事なのは真実がどちらなのかではない。どちらを史実と認定したとしても、軍権を握りその場では対抗しがたい董卓が廃立を行おうとしている事実を知るやお尋ね者になるリスクをしょってでも董卓に立ち向かおうとしたという事実は変わらない。

董卓の言う事を全て受け入れていれば、叔父の太傅袁隗ともども朝廷内での地位は更に向上していたはずなのである。
袁紹はそれを捨ててでも、皇統を乱そうとする董卓に立ち向かおうとしたのである。




【その2】

しかし、出奔は単に自分の国を持つという野望のためじゃないのか、と疑う人もいるだろう。その疑問はもっともであるが、まずはこれを見てほしい。

袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝、太祖拒之。
(『三国志』巻一、武帝紀、初平元年)

(初平)二年春、紹・馥遂立虞為帝、虞終不敢當。
(『三国志』巻一、武帝紀、初平二年)

出奔した袁紹は中原の諸太守・刺史や有力者と共に反董卓の兵を挙げた。
袁紹はそこで幽州牧として名を知られていた劉虞を皇帝に立てようとした。

この時、既に董卓は少帝を廃し献帝を立てていた。


この皇帝を自分たちで立てようという行為について、どちらかというと不忠者の所業と思っている人はいないだろうか?


それは大きな誤りである。少なくとも、皇帝擁立を以て不忠者の烙印を押すのは余りに早漏と言わざるを得ない。



前漢末、王莽の簒奪に対抗しようとした翟義らの反乱では、翟義は劉信を皇帝に立てた。
王莽が次の皇帝と定めた孺子嬰がいるのに、である。

新末の乱の際も、更始帝劉玄や赤眉の劉盆子は長安孺子嬰が居るにもかかわらず立てられたし、光武帝劉秀は更始帝・劉盆子・孺子嬰の去就明らかならざる時に即位している。


皆、皇帝や皇帝になるべき人物がいる中で皇帝が立てられているのだ。
つまり、奸臣逆臣が立てた傀儡や正統ではない偽皇帝の帝位を否定するためには、こちらに正しい皇帝が居ると示すべきだということだ。


袁紹のやろうとしたことこそが漢代の由緒正しい義兵の挙げ方なのである。



また、劉虞を立てようとしたというのも注目すべきである。


劉虞は当時すでに評判の大物皇族で大臣でもあり更には幽州の重鎮でもある。

彼は献帝ほどには先帝(霊帝)と血縁的に近くはないが、皇帝にふさわしい能力、人徳と言う点では申し分ないと言っていいだろう。



もし袁紹が自己の野望に燃える人物なら、こんな人物を担ぐべきではない。
コントロールしにくいから傀儡にはならないし、彼によって漢が立て直されたら袁紹は天下人になれないではないか。

無力な傀儡を担ぐからこそ、擁立者は帝位さえも窺えるのである。



袁紹は「漢王朝から逆臣を除き、あるべき状態へ戻す」という意思があったからこそ劉虞を擁立しようとしたのだ。



【その3】

ここまで読んでもまだ袁紹のことを漢王朝の忠臣と思わない人も少なくないだろう。
ここまで読む人が少ないというのは置いておくとして。

しかし、袁紹の忠誠心は以前からのものだったのである。

(蓋)勳時與宗正劉虞・佐軍校尉袁紹同典禁兵。勳謂虞・紹曰「吾仍見上、上甚聰明、但擁蔽於左右耳。若共併力誅嬖倖、然後徴拔英俊、以興漢室、功遂身退、豈不快乎!」虞・紹亦素有謀、因相連結、未及發而司隸校尉張温舉勳為京兆尹。
(『後漢書』列伝第四十八、蓋勲伝)

涼州の名臣蓋勲は劉虞・袁紹に対し「今の陛下(霊帝)は聡明だが左右の宦官に判断を惑わされているだけなのだ。もし宦官どもを討ち取り、世の賢人を抜擢して漢王朝を再興し、功績が成ったら潔く引退するようにすれば素晴らしいことじゃないか!」と語り、劉虞・袁紹も彼と密接な関係を持つようになったという。


袁紹はこれを再現しようとしているだけなのだと考えられる。

事実、宦官誅滅は実行した。


だが上記の蓋勲の発言は霊帝健在を前提としている。

霊帝が崩じ、その長子劉弁も廃位されてしまっては、誰か聡明な人物を皇帝に立てなければ漢王朝の再興は成らないではないか。
劉協(献帝)は既に董卓の傀儡になってしまった。

となれば、蓋勲との因縁もあり、また皇帝としての徳と能力を備えた劉虞を擁立するのは袁紹としては当然の流れなのだろう。
先帝からの血縁が遠い皇室が皇帝に迎えられるという前例はいくつかあるので、それは障害にならない。


おそらく、袁紹は劉虞を皇帝に立て、董卓を破り混乱を収拾したら蓋勲の言うように軽やかに引退するつもりだったのだろう。



蓋勲の言葉を胸に秘め、漢王朝の再興を信じて自分が認めた劉虞を皇帝に立てようとした男。

それが袁紹なのである。