『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その33

その32(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/06/000100)の続き。





十四年冬十月、荊州地震
十五年春二月乙巳朔、日有食之。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)


建安14年と15年。



急に記事が減る。それまでも少なかったが、いよいよ曹操の動きも出て来なくなった。


十四年春三月、軍至譙、作輕舟、治水軍。
秋七月、自渦入淮、出肥水、軍合肥
辛未、令曰「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絶廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」
置揚州郡縣長吏、開芍陂屯田
十二月、軍還譙。
十五年春、下令曰「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定、此特求賢之急時也。『孟公綽為趙・魏老則優、不可以為滕・薛大夫』。若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋、唯才是舉、吾得而用之。」
冬、作銅雀臺。
(『三国志』巻一、武帝紀)

というか、この時期は曹操自身があまり大きくは動いていないのである。




と言ってもこの2年間の間に、孫権の将周瑜らは曹仁を江陵から追い出し、劉備荊州牧を名乗るようになっている。


つまりこの2年で孫権劉備は急成長を遂げ、荊州南部と揚州がほとんど敵に回ったわけで、止められたのに止めなかったのだとしたら曹操の失策だろう。実際にはすぐに孫権劉備にちょっかいを出すような態勢が整わないくらいレッドクリフでの被害・影響が大きかったのではなかろうか。



「揚州郡縣長吏」というのは、もしかしたら揚州に孫権側になったり逃げだしたりした長吏が多数いた、という事かもしれない。