『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その26

その25(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/29/000100)の続き。





七年夏五月庚戌、袁紹薨。
于窴國獻馴象。
是歳、越巂男子化為女子。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安7年。



袁紹死す。



七年春正月、公軍譙、令曰「吾起義兵、為天下除暴亂。舊土人民、死喪略盡、國中終日行、不見所識、使吾悽愴傷懷。其舉義兵已來、將士絶無後者、求其親戚以後之、授土田、官給耕牛、置學師以教之。為存者立廟、使祀其先人、魂而有靈、吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀、治睢陽渠、遣使以太牢祀橋玄
進軍官渡。
(袁)紹自軍破後、發病歐血。
夏五月死。小子尚代、譚自號車騎將軍、屯黎陽。
秋九月、公征之、連戰。譚・尚數敗退、固守。
(『三国志』巻一、武帝紀)

袁紹が死ぬと、年長の子である袁譚と下の子である袁尚の間で後継争いが始まった。



勢力の動員力などで言えばまだ曹操にも対抗できそうだったのだろうが、これでは各個撃破の危険性を高める事になるというものだろう。